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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.162
2019年3月21日号
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◆今回の内容
◯龍燈と竜宮をつなぐモノ
・セットになった龍燈伝説と竜宮伝説
・乙姫の正体
◯お知らせ
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龍燈と竜宮をつなぐモノ
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この17日は福島県いわき市で、一足早い春分のツアーを実施しました。朝の5時に市役所に集合し、バスで出発。市街の西に聳える閼伽井嶽の頂上近くにある閼伽井嶽薬師常福寺で、夜明けを待ちました。
この閼伽井嶽薬師は、薬師堂からまっすぐ東に参道が伸びていて、春分の日はその真中から太陽が昇ってきます。17日は若干北から昇った太陽が、ちょうど6時に参道の真正面に来て、その光がまっすぐ薬師堂に差し込み、特別に開いていただいた堂の奥へと入っていきました。
本尊の薬師如来像は秘仏なので、朝日はその前立ちの仏を浮かび上がらせ、その反射光が堂内に踊って神々しい光に満たされました。元朝参りや夏の例祭が有名で、いわき市内やその周辺の地域在住の人にとってはお馴染みともいえるところなのですが、こんな光景が拝めることは、参加者の誰も知りませんでした。光が織りなす境内や堂内の光景にみんな一様に息を呑み、「この光景を拝むために、こんなふうにできていたんですね」と、よく知る場所のほんとうの意味をはじめて知ったことに感激していました。
本堂の中で、上野住職の話を伺う間、春分間近の朝日が背中を照らし、冷え込む山上の空気に包まれながらも、柔らかな日差しに背が温もるのを感じ、太陽の恵みを身をもって体験できました。
上野住職は、毎年、お彼岸にはこのようにお堂を開け、護摩壇に向かって護摩木を焚き上げるのですが、その際に、背中に日差しを感じて、季節の巡りを実感すると同時に、護摩の炎の中に仏の姿を感知し、そのありがたみが染み入ってくるように思うのだそうです。霊気に包まれた早朝の閼伽井嶽で、前面に護摩の炎、背中に真っ直ぐ照らす彼岸の陽を感じたら……想像するだけで、無我の境地に入っていけそうです。
じつは数年前の秋分の日にも、ここで朝日を拝むのを皮切りにしたツアーを行ったのですが、そのときは生憎の雨で、光景と雰囲気を想像するだけにとどまりました。そんな雪辱もあったので、観光ビューローのスタッフと私にとっては、思い入れの深い悲願が適った瞬間でもありました。
17日のツアーは、その後、ずっと春分の太陽に照らされながら、以前、ここでも取り上げた龍燈伝説に縁の聖地を巡り、そこに竜宮伝説が重なってくることの意味を考えることをテーマとしました。
今回は、そんなツアーの話から、フィールドワークで確認した龍燈伝説と竜宮伝説の関連について掘り下げてみたいと思います。
●セットになった龍燈伝説と竜宮伝説
太古から雨乞いの祭祀が行われていた水石山に連なる閼伽井嶽は、閼伽井嶽の山頂近くにありながら清水が湧き出し、水石山と同様の水の聖地でもあり、また、磐座信仰を伝える「燕石」と呼ばれる白い花崗岩の岩塊もあり、さらには、古来、修験者たちが集う山岳道場の中心でもありました。
寺史によれば、創建は大同元年(806)で、法相宗を代表する僧であった徳一がこの地にやってきて堂宇を築いたとされています。徳一は、空海、最澄と同時代人であり、両者に対して教義上の疑義を質し、最澄との間では「三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)」を繰り広げたことで有名です。
徳一は主に東国で布教活動に当たったため、都で活躍した空海や最澄に比べると目立たない存在ですが、理論家としては二人を凌駕していました。文献資料では、東国でも現在の茨城県筑波周辺と福島県会津周辺を拠点としていたことが確認できるだけで、いわきを訪れたという証拠は残っていませんが、坂上田村麻呂の東国遠征と連動していたふしがあり、いわきを訪れた可能性は非常に高いと考えられます。
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