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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.154
2018年11月15日号
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◆今回の内容
◯「鹿島神宮」の謎
・朝廷に重要視された鹿島神宮
・祭神の謎
・鹿島の神はどこから来たのか
・太古の「甕」信仰
◯お知らせ
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「鹿島神宮」の謎
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11月10日の「世界ふしぎ発見!」放映後、たくさんの反響をいただきました。実際の取材では数十時間分のロケの録画がありましたが、そのうちからほんの肝の部分の数十分が使われました。もっと詳細が知りたかったというご感想が多数でしたが、さすがに限られた放送枠の中で表現しきれるものでもないので仕方ありません。
しかし、スタッフのみなさんもレポーターの坂本三佳さんも、世界中の聖地を巡っているベテランだけに、よく特徴を掴んでまとめていただけたと思っています。「動く内田を初めて見た」という感想も多数いただき、それだけでもいいご挨拶ができたかななどとも思っています(笑)。
もともと、この企画は私のサイトやこの聖地学講座に以前から関心を持ってくださっていたテレビマンユニオンのOプロデューサーからのオファーで、Oさんは自身も本場のレイラインを精査されたり、国内外の風水の取材なども多く手がけられたベテランで、すで最初の顔合わせのときには、しっかりした骨子を作られていました。そのOさんと、今後「聖地シリーズ」なども企画していこうと話していますので、ご期待ください!
ところで、今回は、鹿島神宮について掘り下げてみたいと思います。
鹿島神宮は富士山と結ばれるレイラインを形成し、さらに「東国三社」の一社としてまさに東日本を代表する神社です。「世界ふしぎ発見!」でも、この講座やサイト、拙著などでもポイントとしてはよく登場していますが、振り返ってみると、鹿島神宮単体では詳述したことがありませんでした。
今回の「世界ふしぎ発見!」の取材で、鹿島神宮の鹿島宮司からいろいろと話しを伺いながら、「鬼塚」や「鎌足神社」などの鹿島神宮の性格をよく表すポイントや、沼尾神社、坂戸神社、大生神社など鹿島神宮の元宮と推定されるポイントなど、今まで触れていなかった事柄も整理しておこうと、単体で鹿島神宮を取り上げることにしたのです。
●朝廷に重要視された鹿島神宮
鹿島神宮がかつての東国においてもっとも重要な神社であったことは、大和朝廷による崇敬が篤かったことからも明らかです。現在でも、毎年元日の早朝、歳旦祭に先だって宮中・神嘉殿で天皇が行われる四方拜で遥拝される一社に数えられています。ちなみに、四方拜で遥拝されるのは、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵、氷川神社(武蔵国一宮)、上賀茂神社と下鴨神社(山城国一宮)、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮(常陸国一宮)、香取神宮(下総国一宮)です。このうち鹿島神宮と香取神宮は上賀茂神社と下鴨神社のように一対を成す社ですので、隣接する一対のこの二社が、かつての東国で遥拝される唯一の存在といえます。
また、「鹿島香取使(かしまかとりづかい)」といって、鹿島神宮と香取神宮の両社には、毎年朝廷から勅使が派遣されていました。伊勢と畿内以外の地方の神社に定期的に、勅使が派遣されていたのは両社と宇佐神宮だけですが、宇佐神宮への派遣は6年に1度でした。ほかにも、『延喜式』神名帳で「神宮」と表記されていたのは大神宮(伊勢神宮内宮)と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであることなど、鹿島香取の両社が破格の扱いを受けていたことがわかります。
何故、これほど大和朝廷に重視されたのかといえば、それは、鹿島神宮が古代から大和朝廷の東国進出の拠点とされていたからです。主祭神として祀られているのは武甕槌(建御雷、タケミカヅチ)で、この神は国譲り神話で出雲の大国主に国譲りを迫る天孫の使いとして登場します。国譲り神話では、大国主の次男である建御名方(タケミナカタ)が、武甕槌に反抗し、破れて諏訪に落ち延びたとされ、それが鹿島神宮と諏訪大社の位置関係と御神座の向きなどに表されていることは、この講座や拙著でも詳述しています。
国譲り神話で活躍した武神を東国の蝦夷と直接対峙する場所に置き、軍事拠点としたのが鹿島神宮と兄弟社である香取神宮(香取神宮の祭神である経津主<フツヌシ>は、武甕槌が持っていた刀もしくは、刀を振るう際の「フツッ」という音を霊力として神格化したものといわれます)ですから、朝廷からすれば東国経営の肝となる両社を重視するのは当然です。
鹿島神宮に祀られた武甕槌は、この地に、国譲り神話で描かれているのと同じように天下ったとされています。では、武甕槌が祀られる以前の鹿島では、どんな信仰風景が見られたのでしょうか。
●祭神の謎
前々回の「東京スカイツリーとレイライン」では、鹿島神宮のもっともプリミティヴな信仰の形は、現在の奥宮の背後にある要石を崇める巨石信仰だったと紹介しました。神の依代である磐座としての要石と、そこから見られる、立春・立冬の太陽が富士山に沈む風景と、夏至の太陽が筑波山に沈む風景によって太陽信仰の山当ての聖地としての性格も併せ持っていたというものです。そうした信仰は、鹿島神宮の周囲に縄文遺跡が多数存在することから、縄文から蝦夷へと受け継がれていったものと想像できます。
鹿島神宮の参道は、鹿島神宮-富士山ラインの方位に沿っていますが、このラインをさらに北東に伸ばすと、「高天原」と呼ばれる住所があり、その中心に「鬼塚」と呼ばれる直径80mほどの丘があります。鹿島神宮に伝わる由緒によれば、ここは元々この土地を支配していた蝦夷を征伐して、その遺体を埋めた場所だとされています。ここは禁足地になっているため、一般の人は入れないのですが、先日、鹿島宮司にどんな様子なのか伺ったところ、鬼塚の頂上は360度遮るものがなく、絶景が広がり、鹿島神宮の森も筑波山も見渡せるとのことでした。
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