二分の朝日を正面に受け、本尊の薬師如来像を照らす構造の閼伽井嶽薬師(日出の写真は「いわきレイライン調査隊」提供)。龍燈杉はこの境内の右側斜面にある
福島県のいわき市で、4年にわたり聖地の調査をしている。
いわき市というと、スパリゾートハワイアンズが有名だが、この土地に刻まれた歴史はとても古く、古代から東の蝦夷の勢力と西の大和朝廷の勢力が拮抗してきたところであり、幕末には、奥羽列藩同盟の磐城平藩と官軍との間で、戊辰戦争の一つのクライマックスともいえる戦いが繰り広げられた。また、地理的には、ちょうど太平洋の親潮と黒潮がぶつかる「潮目」に当たるところでもあり、日本の歴史と文化、自然が一点に凝縮されたような場所でもある。
そんな土地柄のせいか、地域に対する地元の人たちの関心が高く、様々な分野の専門が集う「いわき地域学會」はいわゆる『地域学』の嚆矢ともいえる存在で、後に各地で立ち上がった地域研究団体の手本となっている。
そのいわき地域学會副代表幹事の夏井芳徳さんから、「龍燈伝説」という話を聞いたのは、調査を開始して間もない頃だった。
いわきに伝わる「龍燈伝説」とは、いわき市の聖山の一つである閼伽井嶽の頂上直下にある閼伽井嶽薬師に古くから伝わる話で、夜に、閼伽井嶽薬師から遠望する太平洋上に蛍火のようなものが現れ、それが湧き上がるように川を遡ってきて、閼伽井嶽薬師まで登ってくると、境内の傍らにある巨木「龍燈杉」に群がって、巨木が輝くというものだ。
この閼伽井嶽薬師の龍燈は、大須賀イン軒が『磐城誌料歳時民俗記』に詳述している他、江戸時代中期の地理学者・長久保赤水や、明治に入ってからも同志社の設立者である新島襄が、わざわざ龍燈見物にいわきまでやって来て、見られずに残念がっている記録も残されている。夏井さんによれば、明治の中頃までは全国的にも有名で、新島襄のように足を運んで見物に訪れる人も多かったとのこと。しかし、今では、伝説として残っているだけで、その痕跡もない。
同じ東北では、宮城県の女川にも龍燈伝説がある。ここの龍燈伝説は、奇しくもいわきにリンクしている。いわき市の北部山間部の三和地区には、女川出身の独国大師が開いたと伝えられる差塩(さいそ)三十三観音があるが、その龍燈伝説は、この独国大師にまつわるものだ。
それは、女川を拠点に諸国へ布教の旅に出かけていた独国大師が、女川へ戻る数日前になると、独国大師の庵である女川観音の入り口にある龍燈の松に火が灯るというもので、村の人たちは、その龍燈が灯ったのを見て、独国大師が間もなく帰ってくることを察知し、迎えの準備を整えたのだという。これは、純粋な自然現象というよりも、独国大師が旅の帰り道に使いを出して、目印の龍燈を灯させた可能性が高いように思えるが、閼伽井嶽薬師の龍燈伝説と独国大師が、いわきという土地で繋がるのが興味深い。
さらに、「龍燈」に関して調べてみると、富山県の立山にも同じような龍燈伝説があることがわかった。これは、江戸時代の紀行文『東遊記』に橘南谿が記したもので、越中国(富山県)中新川郡の眼目山(さっかさん)立山寺(りゅうせんじ)で毎年7月13日の夜、立山の頂上と眼下の富山湾の海中から龍燈が飛来して境内の松の梢に留まるという。さらに、龍燈というのは海から飛来するほうを指し、立山から飛来するものは山燈というと記している。その由来については、道元の弟子であった大徹禅師がこの寺を開いた際、山の神と龍神が協力して神火を寺に献じたことが初めであるとされた。
龍燈伝説は、広島県の厳島神社にも伝わっていた。それは、旧暦の元旦から1月6日頃まで、海上に現れるもので、最初に1個現れ、それが次第に数を増して50個ほどになり、再び1個に戻って明け方に消え去ったという。その光景は、弥山の頂上からよく見え、山頂は見物客で溢れたという。言い伝えでは、厳島明神は海の神で、その住居である竜宮から神がやってくるときの道標であったという。
寛保年間に著された『諸国里人談』には、周防国(山口県)上庄熊野権現では、大晦日に龍燈が現れるとあり、丹後国の天橋立の文殊堂には「龍灯の松」があって、毎月16日の夜中に沖から龍燈が飛来してこの松に神火を灯すとある。ほかにも、『両国三十三所名所図会』に描かれた龍燈松もある。大阪では、龍燈を沖龍灯と呼び、魚たちが龍を祀るために灯す火と言われているという。
福井県敦賀市にある常宮神社では、正月元日の夜明け頃、社の前の海に、篝火のような霊火が浮かび、しばらく漂っていたかと思うと沖に漂っていって消えたという。これを地元では龍燈と呼び、龍燈が通ったところは禁漁とされたという。
島根県隠岐島にある焼火神社(たくひじんじゃ)の由来でも龍燈が語られている。一条天皇(在位986-1011)の時代、隠岐島の焼火山の前の海中で光が輝きはじめ、次第にその輝きを強めていった。数日後に、その光は海から飛び出し、焼火山に飛び入った。その後を村人が追っていくと、光が消えた場所に菩薩のの形をした岩があったので、これをご神体として祀り、焼火神社の社殿を造営したのだという。
こうしてみると、龍燈という現象は、江戸から明治の初めあたりにかけては、全国で見られるかなりポピュラーな現象だったことがわかる。
柳田國男は、「龍燈」は水辺の怪火を意味する漢語であるとし、日本では、この自然発火現象の説明として、龍神が特定の日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとする。そして、その灯火は祖霊を迎えるためのものであり、左義長や柱松と同じ発想から生まれたと説いた。
南方熊楠は、龍燈伝説の起源はインドで、自然の発火現象を利用して信仰に帰依させようとした僧侶が鬼火のような伝説を広め、それが中国に渡って龍神の灯火という伝説に変化して、それが日本に伝わったものであろうと説いている。
龍燈の由来は柳田や南方の説の両方のケースが考えられると思うが、それが自然発火現象を元にしたものだとしたら、いったいどうして明治以降は、そうした現象が見られなくなってしまったのだろう? それは、夜でも灯りが輝くようになって、淡い光である龍燈が物理的に見えにくくなってしまったのだろうか。龍燈の多くは、セントエルモの火と同様の発光現象だったのではないかという説もある。コロナ放電やプラズマのようなものも確かにあっただろう。
そういえば、祖母や母からは、人魂が飛んだという話を子供の頃によく聞いた。また、自分でも、小学校五年生のときに、丑三つ時の夜空に浮かぶ不気味な赤い光を見たことがあった。今では、そんな記憶もすっかり薄れて、思い返しても夢か現か定かでなく、なんとロマンのない世界なのだろうと、寂しく思う。
ところで、龍燈伝説には、まだ続きがある。
それは、四国での聖地調査で出会った伝説で、詳しくは、後日、「四国遍路」のサイトのほうで発表したいと思う。
**参考**
『いわきの伝説ノート』(夏井芳徳著 歴史春秋社)
『諸国里人談』(国立図書館デジタルアーカイブ)
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