三浦さんと出会ったのは、37年前の夏だった。
青森県の大間の港は、7月も末だというのに氷雨が降っていて、函館に渡るフェリーの待合所ではストーブが焚かれていた。
雨の中をずっとオートバイで走ってきて衣類がびしょ濡れになってしまったぼくは、ストーブの正面に陣取って、そのまま着乾かしていた。
すると、ふいに声を掛けられた。
「これから北海道へ渡るのかい?」
野球のホームベースのような輪郭に、無精髭を生やした顔が、愛嬌のある細い目で笑っていた。それが三浦さんだった。
彼は、当時二十歳のぼくより一回り以上年上だったが、同じようにオートバイで旅をしているのだという。東京を出発して、日本海側を南下して九州まで行き、今度は太平洋岸を北上して大間までたどり着いた。これから北海道に渡り、実家の旭川に寄って、この年に亡くなったお母さんの墓に参るところとのことだった。
歳はだいぶ違ったけれど、なぜか妙に気が合い、函館に上陸した後、長万部のキャンプ場でテントを並べた。毛蟹をたくさん買ってきて、それを湯がき、器用に実を分けて、それを振る舞ってくれた。
その後、一週間あまり、一緒に道内を旅した。
彼は、実家の旭川に帰りたくもあり、また逆に帰るのをためらっているようでもあった。弟子屈のキャンプ場で、降るような星空の元、酒を酌み交わしていたら、彼は、自分の生い立ちを訥々と語りだした。
中学生の時に、自分が養子で、両親はすでにこの世にいないことを知った。それを隠していた養父母を恨むような気持ちになり、中学を卒業すると東京に出て、菓子職人の見習いになった。
だいぶ仕事にもなれた頃、母親がガンになり、その手術や治療の費用を稼ぐために、実入りのいいトラックのドライバーに職変えをした。20歳を過ぎた頃、なにか趣味を持ちたいと考えて、仕送りした後の苦しい家計の中で、少しずつ貯金して、オートバイを買い、休日に走りに出かけるようになった。
ショップで知り合ったライダーの女の子と仲良くなり、一時は結婚も考えたが、仕送りのことを考えると、妻子を養っていくことは無理だと思い、その子とは分かれることになった。
そして、彼のお母さんは、闘病生活十数年のこの年に亡くなり、彼は、仕事を辞めて、オートバイで日本一周することにした。その道中、たくさん写真を撮って、旭川から一歩も出たことのなかった母親の墓前で、その写真を供えて、旅の話をしようと思っているのだということだった。
旭川の手前で、ぼくたちは分かれた。
その後、三浦さんは東京でトラック運転手の仕事に戻り、時々、酒を酌み交わして、旅の話などするようになった。
ぼくが結婚して、新居に引っ越すときには、自分のトラックを運転してきて、引越荷物を運んでくれた。
三浦さんは、50歳を過ぎた頃、東京での仕事を辞めて、長野県の八坂村に移り住んだ。古民家を借りて、地域の仕事を手伝い、暇になると軽トラックにオートバイを積んで、気ままな旅にでかけた。
そのうち、クロという犬を飼うようになり、軽トラックをお手製のキャンパーに仕立てて、クロを相棒に旅をするようになった。あるとき、ぼくが雑誌の取材で長野県の安房峠をオートバイで越えていこうとしたら、そこでキャンプしていた三浦さんにばったり出会ったこともあった。
ぼくは、信州方面を巡るときには、彼の家を訪ねて、数日厄介になった。
あるとき、旅先で知り合ったという女性が一緒に住むようになり、三浦さんは亭主関白を気取って、とても嬉しそうだった。しかし、その女性がどこかへ去ってしまうと、彼の生活は荒んでしまった。
その後、体を悪くして、これではいけないと思ったのか、また旅に出るようになった。一時期、沈んでいた彼は、旅でまた元気を取り戻し、愛嬌のある笑顔で出迎えてくれるようになった。
三浦さんの家を訪ねて、帰るときには、いつも「村の中を一回りしてこよう」と言って、軽トラックを運転し、畑仕事をしている友人を見かけると、「今日、内田くんが帰るので、なにか土産を持たせてあげようと思ってさ。採れたての野菜があったら譲ってよ」と声をかけ、俄八百屋ができそうなほどの野菜を土産に持たせてくれた。
この二年ほどは、彼の家を訪ねていなかったが、昨年の暮れに電話をくれて、しみじみと旅の話をした。彼は、ぼくが取材をしている「ツーリングマップル中部北陸」というライダー向けの情報地図を毎年、買ってくれて、自分が旅をして見知ったことをそこに書き入れ、「この温泉は、もう閉じちゃったんだよ」とか「この林道の奥に、広い草原があってさ、近くには湧き水もあるからキャンプするのにいいよ」と、丁寧な字で書き込んだ地図を見せてくれた。その電話のときも、飯田の近くの温泉が気に入って、近くの空き地でキャンプできるから地図に載せるといいよとアドバイスしてくれた。
昨年の夏に、旅の相棒だったクロを亡くして、少し寂しそうな声だったが、最後に、「今年は、久しぶりに一緒にキャンプして、温泉に浸かりましょう」と約束して、その電話を切った。
そして、昨日、八坂村に住む三浦さんの友人から、ふいに電話をもらった。今月8日に三浦さんが亡くなったと。
いつものように長い旅に出て、その途中、苦しくなって、通行人に助けを求め、そのまま救急搬送され、意識を取り戻さないまま息を引き取ったのだという。
その知らせを聞いて、なんだか力が抜けてしまった。
旅の空で逝って、きっと三浦さんは幸せだったのだろう。
心から冥福を祈ります。三浦さん。ぼくがあの世の入口に行ったら、また声を掛けてください。
コメント