3.11から7年。
7年という時が物語るものはいったい何だろう。
あのとき生まれた子供たちは小学校二年生になり、津波から逃れた保育園児たちは中学や高校生になっている。成人して結婚した人もいるだろうし、子供が生まれた人もいるだろう。そして亡くなった人も。
そう考えると、時の流れの中で、人の生活はみんな変化しているように思える。
復興に向かって歩みを進め、町並みが賑わってきたところもある。しかし、いっぽうで、人の気配は消えたままで、ゴーストタウンのような場所もある。そして、福島第一原発には膨大な汚染水のタンクが並び、核燃料デブリの取り出し方法も確立されていない。原発被災により非難した7万人以上の人たちは、故郷に帰れずに避難生活をしている。
あのとき、原発災害の底知れない恐ろしさを見せつけられ、一時は再生可能エネルギーに大きくシフトするかに見えた。しかし、その後の成り行きはまったく逆で、老朽原発のいくつかが再稼働され、原発輸出などという話が具体化している。これが愚かに思えないのだろうか?
そもそも日本は、火山や地震、津波、洪水、山崩れ……と、世界でもっとも災害の多い国なのだ。災害が多いということは裏を返せば、それだけ自然からの恵みも多いことにもなる。火山は温泉をもたらし、津波をもたらす海は海溝と海流の影響で世界一の漁場となっている。山や川は、里に豊富な水をもたらし、稲作をはじめとする多彩な農業生産を支えている。
そんなふうに自然が多彩だからこそ、この国=土地に住み着いてきた人たちは、それぞれの土地の自然を「神」として、災害をもたらす部分を荒御魂(あらみたま)として畏れ、恵みをもたらす和御魂(にぎみたま)として感謝して生きてきた。
3.11が未曾有の災害になってしまったのは、ひとつには、そうした多彩な自然を神として崇める心を失ってしまっていたからではないかと思う。
この国には原発はそぐわない……そもそも原発という代物が核廃棄物というとんでもなくやっかいなゴミを生み出し続けるのだから、この地球にそぐわないのだが。古(いにしえ)の人たちが、そんなものを再び動かし、また作り出そうなんてしているのを見たら、神にそむく暴挙としか思わないだろう。
「原発がなければエネルギー需要を満たせない」という人がいる。あるいは「原発を稼働させないと電気料金が高くなる」と。しかし、今、世界では再生可能エネルギーの効率がどんどん良くなっていて、そうした7年前の理屈は通じなくなってきている。
日本は地域ごとに自然環境が異なり、それぞれの土地でもっとも効率的に活用できる自然エネルギーが存在している。火山地域なら地熱発電を、日照が安定して豊富な地域なら太陽光発電を、風の名所なら風力発電を、そして、川に近ければ大規模な水力発電ではなく、引き込み水路を利用した小規模発電をすればいい。それらは、地域ごとに異なる、日本という国ならではの「神の恵み」にほかならない。
そして、そんな神の恵みは、長大でエネルギーロスの多い送電網など使わず、地域ごとの送電網と蓄電設備を使って、エネルギーロスを少なく、リーズナブルに運用すればいい。
それができなければ、今よりもずっとローテクな技術ながら高効率に生きていた古の人たちに笑わられるだろうし、3.11で失われた尊い命にも申しわけがたたない。
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