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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.128
2017年10月19日号
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◆今回の内容
◯エルサレムに見る「聖地性」
・4000年間の固執
・記憶の場
・天上のエルサレム
◯お知らせ
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エルサレムに見る「聖地性」
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私は、若い頃から砂漠に憧れ、カリフォルニアやアリゾナの砂漠でオフロードバイクを走らせたり、メキシコのバハカリフォルニアで行われるデザート(砂漠)レースに出場したり、タクラマカン砂漠を旅したりしてきました。
砂とまばらな灌木があるだけで、見渡す限り他に何もない砂漠という環境は、そこがあまりにも何もなさすぎるがゆえに、そこに様々な存在を妄想したりあるいは投影して、イマジネーションが果てしなく膨らんでいきます。そんな体験をすると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が砂漠という環境から生み出され、いまだに砂漠の中に根源的な聖地を持っていることが、自然に納得できます。
エルサレムという聖地には、まだ残念ながら足を踏み入れたことがないのですが、砂漠の宗教が生み出され、今でも三つの宗教にとってあらゆる聖地の中心である「世界の臍」として、その信者を惹きつけていることに興味を掻き立てられてきました。
ルーツを同じくする三つの宗教が、2000年以上に渡って互いに血で血を洗う抗争を繰り広げ、しかし、猫の額のようなエルサレムの旧市街にひしめいて共存していることに驚異を覚えます。それは、エルサレムにしばらく滞在して、その空気に浸らなければわからないものでしょう。
最近、何故かそんなエルサレムが気になって調べたりしていたのですが、この数ヶ月のうちに、エルサレムやイスラエルと関係の深い人と何人も知り合うことになりました。ある人は、イスラエル大使館に長い間勤められていた人で、当然、エルサレムのことはよく知ってます。また、ある人はエルサレムと関係の深いユダヤ教エッセネ派の研究者で、とくに歴史に造詣の深い人でした。また、つい最近までエルサレムに滞在されていたという人もいます。
ある場所のことを意識するようになると、自然にその場所に呼び寄せられるようなことが起きますが、ついに私もエルサレムに呼ばれだしたのかなと思っています。そんなこともあり、今回は、エルサレムという聖地に焦点を当て、そこに見える典型的な「聖地性」を検証してみようと思います。
今回を第一部として、彼の地への訪問がかなったら、第二部のレポートをお届けしようと思います。
【4000年間の固執】
エルサレムの歴史がはっきりと史実として記録されたのは、紀元前1000年頃、ダヴィデ王のときです。ダヴィデは初代イスラエル王サウルの後を継ぎます。ダヴィデの息子はソロモンで、この親子の代に古代イスラエル王国は黄金時代を築きます。
ダヴィデは、砂漠の中の荒涼とした丘の上にあったエルサレムの砦で、大昔のものと思われる聖所を見つけました。このエルサレムの砦は、元々は「サレム」と呼ばれていましたが、サレムはカナン人の宵の明星の神のことでした。旧約聖書では、サレムの祭司王メルキゼデクがパンとブドウ酒をたずさえて預言者アブラハムに会い、「天地の主なる」エル・エリオン(至高の神)の名のもとにサレムを祝福したとされます。
ダヴィデはこの聖所こそがサレムであるとして、ここを世界の臍=中心とした都市を築いてイスラエルの都とします。そして、メルキゼデクが地上と天上を統合する象徴とした紋章を自分のものとしました。
ダヴィデが発見した聖所は、正確にはいつのものか不明ですが、シリアのアレッポ郊外に紀元前二千年紀に存在した古代都市国家「エブラ」から出土した粘土板に記された「サレム」がこの聖所ではないかと推測されています。だとすれば、エルサレムの歴史はダヴィデからさらに1000年昔の4000年前まで遡ることになります。
エルサレムの中心にあった聖所は、その中に巨大な岩を抱いていました。ダヴィデを継いでイスラエル王となったソロモン王は、この岩を覆う神殿を建てました。これは「第一神殿」と呼ばれます。その後、神殿が建つこの一帯は「神殿の丘」と呼ばれるようになりました。
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