先日、大阪府の東端、京都府と境を接する場所に位置する島本町を訪ねてきた。
ここには、後鳥羽院が愛した甘露な水が湧き、そこに建てた離宮の跡に、後鳥羽院を偲んで創建された水無瀬宮がある。
後鳥羽院といえば、承久の乱で敗北し、隠岐に流されてそこで亡くなった不運の天皇だ。
繊細な歌人であり、また茶人であった後鳥羽院は、離宮での日々がもっとも自分が自分らしく暮らせた時であり、心から懐かしく想っていたのだろう。隠岐にあっても離宮での日々を想い浮かべて歌を詠んだ。
そんな後鳥羽院の想いを地元の人たちが受け止め、その遺徳を偲んで建てたのが水無瀬宮だ。その参道は、後鳥羽院が崩ぜられた隠岐を指すとも伝えられている。
古来、日本人は、義経の判官贔屓に見られるように、不遇・無念のうちに亡くなった魂を鎮撫する優しい心を持っていた。
平安人が御霊として祀った早良親王、東北人の心に今でも生きる阿弖流為(アテルイ)、天神として祀られた道真、讃岐人が優しく祀り西行が面影を偲んだ崇徳帝、そして後鳥羽院。
みんな歴史の表舞台では、戦いや政争に破れ、不遇のうちに亡くなった魂だ。日本以外の文化圏であれば、そんな魂たちは、歴史の敗残者として顧みられることはなかっただろう。しかし、日本では、その無念を自分の胸の痛みとして感じた人々によって、神祀りされてきた。
水無瀬宮の境内では、そこここに後鳥羽院の気配や、後鳥羽院への思慕が濃厚に感じられる。そんな気配に包まれていると、何故か、自分の心もほぐれ、遥か歴史の彼方の出来事が、つい昨日のように感じられ、自分の中にも追慕の思いが浮かんでくる。
即物的で、我欲むき出しで、あさましさがはびこる現代が、いちばん忘れてしまっているのは、不遇や無念に寄り添う優しさなんじゃないかと、水無瀬宮に、また水の都である島本という土地に立ち昇るゲニウス・ロキに思い出させられたような気がした。
一昨日は、「未来の美意識」をテーマに、今野絢さん、久保田光一さん、那須勲さんとトークセッションさせていただいたが、あのとき、ぼくはこんなことを語るべきだったなと今頃気づいて、あらためて記してみた。
弱者を切り捨てるということは、本来の日本人の美意識からもっとも遠い。身びいきもしかり……。
少なくともぼくは、死ぬまで判官贔屓でありたいと思う……それが、日本人であることのぼくの矜持だから。
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