先日、アーティスト今野絢さんの個展"Tuning Exist"に伺った。『縄文の響』をモチーフにした水彩とオブジェは、力強い具象的なものから、次第に優しく淡いものへと変化してゆき、ぐるりを囲まれた空間にいると、色彩の響きに心地よく包まれて、瞑想しているような気分になる。
今度の土曜日(11月19日)にこの会場で、聖地写真家の久保田光一さん、宝珠悉皆師の那須勲さんとともに縄文の聖性といったテーマでトークショーを開かせてもらうことになっていて、その打ち合わせも兼ねていたのだが、少し早めに会場に到着して作品と向き合っているうちに、用件のことは忘れて、すっかり雰囲気に気持ちよく漂っていた。
そのうち久保田さんがやってきて、作品と向き合い始めたが、彼は作品一つ一つを離れて眺めたり、舐めるように細部を見つめたりしながら、「どこを切り取っても作品が成立するなぁ」とか「ベタがどこにもなくて、神経が行きわたっているなぁ」とつぶやきながら感心している。
そして、今野さんに、使っている紙や絵の具や技法を尋ね、さらに「このあたりは、どんな気持ちで描いたんですか」と、制作している時の心理などを聞いて、「なるほど、そうなんですね」と、今度はしきりに納得している。
今野さんは、「やっぱりアーティストは視点が違って面白いですねぇ」と、久保田さんの質問に無邪気な子供のように答えている。
二人のやりとりが興味深いので、ぼくも二人にくっついて話を聞き、久保田さんが食い入るように見つめるところは同じようにして筆の刷毛目やデッサンのラインを追ってみた。すると、急に作品に立体感と動きが出てきて、その向こうに今野さんの制作している様子や、作品の発想に繋がったバックボーンが幻視される気がして、ますますこの場の雰囲気が心地よくなってきた。
久保田さんは大判のフィルムにこだわり、さらに印画紙にもこだわって、聖地が秘めた聖性を表現しているが、今野さんとのやりとりを聞いていて、彼のこだわりの本質のようなものが見えてきた気もした。
自然の中には単純な一色だけのベタなカラーはまったくない。同じ色でも常にグラデーションを描き、それが途切れのないリズムを感じさせて、人に安心感やダイナミズムを感じさせる。久保田さんが使う大判フィルムに写された自然は、そうしたグラデーションをそのまま移し取り、さらに印画紙にもそのまま焼きつけられる。だから、自然をダイレクトに感じさせ、さらに「聖性」のようなフラジャイルな感覚を漂わせるのだろう。
円空が一気呵成に鉈をふるって、自然木から仏を掘り出す時、彼は自分がイメージする仏を掘り出しているのではなく、その土地に漂う「気配」としての仏をそこに現出させるために、自分は鉈をふるわされているのだと言ったという。
今野さんの絵も久保田さんの写真も、まさに「そこに漂うもの」や「どこからかやってきた縄文の響きのイメージ」をお筆先として具現化させたものなのだ。そうわかって、ぼくも得心がいった。
そして、これからアートと向き合うときに、新しい視点が持てたことに嬉しくなった。
今度のトークショーでは、那須勲さんにもアートの真髄を尋ね、さらに縄文人たちの心性まで話題を進めたいと思っている。ご都合のつく方は、ぜひお越しを!
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