「内外の風気、わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」「五大にみな響きあり、十界に言語を具す」……声ならざる声、言葉ならざる言葉、時々、空海の「お題」を考えると、意識が広がる。
「真言」も本当は「宇宙的響き」のことだから、名付けようもないものなのだけれど、いちおう「真言」という記号を振って、その記号の意味を空海は一生かかって説明しようとしたのだろう。
地・水・火・風の「四大」に空を加えて「五大」さらに識を加えて「六大」。真言は、その六大を貫通して響く通奏低音のようなものとイメージすればいいのか? でも、そのイメージではまだ「音」に囚われているから、それではまだ未熟だ。
フーコーが「権力=パノプティコン」という結講を導入したのに魅了されて、何でもプラグマティックに説明できると若い頃は思っていたけれど、今はもやもやとして割り切れないメタフィジックな世界と、それをメタファーで表現しようとする精神のほうに惹かれる。
ふつう、物事は名前をつけられてしまうと、そこから陳腐化してしまうが、逆に名前がつけられたことで人が宇宙の深淵と向き合うことになる、そんな言葉もある。
右翼だ左翼だと、掃き溜めで腐り果てたと思っていた言葉が引っ張りだされて、それを人に投げつけるような悲しい世の中になってしまった今、空海の言葉に向き合って宇宙を想像するとホッとする。
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