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「聖地学講座」
vol.317
2025年9月4日号
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◆今回の内容
○共感覚と聖地・聖性
・古代人の共感覚
・聖地と共感覚
・聖地感覚アナライザーー
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共感覚と聖地・聖性
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映画『ノーカントリー』や『ザ・ロード』の原作小説の作者として知られるコーマック・マッカーシーは、2023年に亡くなりましたが、その前年に、自身の集大成ともいえる『通り過ぎゆく者』と『ステラ・マリス』の二部作を発表しました。『通り過ぎゆく者』では主人公の妹として描かれ、『ステラ・マリス』では主人公のアリシアは、「共感覚」を持つ数学の天才です。
彼女は数式を見ると、具体的な色や形を感じます。また、音楽を聴くと同様に色が浮かび、数式とかぶさるような質感も感得します。数学者である彼女は、数学的対象を視覚的イメージや触覚的感覚として捉えるため、直観的かつ感覚的に抽象的構造を把握できたのです。
こうした共感覚的知覚は、彼女に特異な感性の歓びも与えますが、いっぽう、深い孤独と疎外感をももたらしてしまいます。他者とは共有できない微細で直観的な感覚世界を持っているがゆえに、他者の世界と彼女の世界はすれ違ってしまうのです。アリシアの共感覚は、単なる色彩豊かな世界認識ではなく、むしろ現実の構造的真実をそのまま受け取りすぎてしまう、ある種の知覚の過剰さ=脆さを表しています。
数学的・形而上学的な構造が、彼女には現実そのものとして感覚され、抽象が抽象ではなく、刺すような明瞭さで感覚に流れ込んでくる。それを受け止めるために、彼女の精神は様々な幻覚を生み出します。そして、自ら、ステラ・マリスという精神病患者の療養施設に入り、共感覚を異常としない世界で、静かに自分を取り戻すのです。
アリシアのような共感覚を持つ人は実際に存在します。ロシアの画家ワシリー・カンディンスキーは、音楽を色・形・動きとして視覚的に感じ、「音楽は見えるもの」、「絵画は聞こえるもの」と自ら語りました。イギリスの現代美術家デイヴィッド・ホックニーも色や空間の深度を音に結びつけて知覚する傾向があったとされます。また、音楽家のフランツ・リストも、指揮中に「もっと青を!」「このフレーズは紫だ!」などと語った記録が残っています。
ほかにも、物理学者のリチャード・ファインマンや発明家のニコラ・テスラ、作家のウラジミール・ナボコフ、日本人ではアーティストの草間彌生、音楽家の坂本龍一などが共感覚の持ち主として知られていたり、みずから共感覚的体験を語っています。
このような共感覚は、一般には特異体質あるいは異常性として受け止められています。そうした一般社会との「そぐわなさ」が、アリシアを療養施設に追いやり、共感覚を持つアーティストや科学者を稀な天才として特別視するわけです。ところが、共感覚は特異なものではなく、むしろ共感覚のほうが、人間が本来持っていた自然な感覚だとする研究結果が近年、多く報告されています。
マッカーシーの小説を読みながら、共感覚の様々な例を思い出し、ふと、「この共感覚という概念から聖地や聖性について考えたら面白いのではないか」と思いました。
「聖地」や「聖性」という概念は抽象的で感覚的なものであるため、ロジカルに解明・説明するのが難しいものです。だから、外堀を丹念に埋めるように、様々な角度から検討を加えてきたわけですが、ロジカルな解釈や説明を試みるのと並行して、共感覚を一つの指針として聖地や聖性を考えたら、新しい展望がひらけるのではないかと思ったのです。
そもそも、聖地を他の場所と選り分ける感性や、聖性を感得する感性というものが、共感覚に由来するといえます。人類は、言語を獲得する以前から、聖地を見出し、葬送儀礼などで明らかな聖性の意識を発露させていました。太古の人類のそうした感覚は、言葉がない以上、必然的に共感覚的であり、それが世界を理解する枠組みだったと考えられます。
太古の人間の感覚の大部分を占めていたそんな共感覚は、個人差があるものの現代人にも残っています。それが強く残っている人々が、アリシアや、ここで挙げたアーティストや科学者たちだといえます。また、誰でも聖地を訪ねれば、様々な感覚を刺激され、それが共感覚的な刺激となって何かを感じる。その「何か」が「聖性」であると定義すればわかりやすくなるはずです。
さらに、もっと突っ込んで、五感が(ときに第六感も含めて)相互に嵌入し合う状態が「共感覚」だとして、聖地において、人が、色や音、味覚や嗅覚などの響き合いから、聖性という感覚が呼び起こされるメカニズムが明確になるのではないかと思うのです。
●古代人の共感覚●
心理学者のリチャード・シトウィックは、2002年に発表した論文の中で、乳児が音に反応して色に注意を向ける事例を示し、「共感覚は言語獲得以前の発達段階においては普遍的だった可能性がある」と指摘しています。この報告の他にも、脳神経科学の分野で、 生後数ヶ月の乳児の脳で視覚野と聴覚野の間に異常に多くの神経結合が見られることが知られ、「新生児の共感覚」と呼ばれています。
まだ言葉が話せない乳児は、視線が定まらず、特定の対象をじっと見つめることもあれば、何も無い空間の一点を見つめていたり、成人に見えない何かに対して声をあげて手を伸ばすような行動を示したりします。
発達心理学の実験では、「乳児が母親の声に反応して視線を天井の明るい方へ向ける」、「音に対して手を振る」などの行動が見られることから、乳児は、音・視覚・運動の感覚が分離されていない「モダリティ未分化状態」にあると説明されます。こうしたモダリティ未分化状態の乳幼児が示す共感覚は、人類が言語を獲得する以前の世界認識の状態に近いと考えられます。
人類が言語を獲得したのは、およそ10万年前から5万年前頃と考えられていますが、それ以前のネアンデルタール人の時代から、人類は葬送儀礼を行ったり、組織的な狩猟を行っていました。それは、言語以外の方法で世界を認識し、死を特別なものととらえ、コミュニケーションを図っていたことを意味しています。
それは、主に言語によって世界を理解し、コミュニケーションを図る現代の成人よりも、はるかに乳児に近いものだったと考えられます。本来的に多重的で統合的な知覚つまり共感覚の持ち主だった人類は、「音」「光」「触覚」「動き」といった個々のモダリティではなく、世界を統合的な「全体的印象」として経験していた。世界全体が丸ごと迫ってくる「野生」ともいえる状態では、そうした共感覚による敏感で総合的な世界理解が必要不可欠だったでしょう。
ところが、言語を獲得し、文明を発達させて、社会の分業が進むうちに、人類は共感覚的なセンスを次第に失い、モダリティが分割された形で世界を理解するようになった。シトウィックの共感覚の研究では、「乳児期には異なる感覚モダリティ(視覚・聴覚・触覚など)の間に、発達途中の<冗長な神経接続>が存在し、それが後の成長に伴って剪定されていく過程がはっきりと示されていました。
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