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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.72
2015年6月18日号
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◆今回の内容
1 大地に描かれた北斗七星
妙見信仰と千葉の北斗七星
将門の北斗七星と山王七神社
入れ子になった北斗七星
別所温泉を取り巻く北斗七星
2 お知らせ
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大地に描かれた北斗七星
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大地に描かれた大きな図形といえば、ナスカの地上絵が思い浮かびます。最近の研究では、地上絵が単体で意味を成しているだけでなく、全体が一つのネットワークを構成して、太陽や月、星の動きを象っていることがわかってきたようです。
今回は、日本で顕著な北斗七星を象った聖地の配置を紹介します。これまでに、他の記事の中で断片的に触れたものもありますが、それらも含めて、より詳細に検証してみたいと思います。
【妙見信仰と千葉の北斗七星】
大地に北斗七星の形に聖地を配置するのは、魔除けや土地の繁栄を祈るという意味があります。そのベースになっているのは「妙見北辰信仰」です。
妙見北辰信仰というと、日本では北極星を崇めるものと北斗七星を崇めるものが混同されがちです。かくいう私も、時々「妙見が北極星で、北辰が北斗七星だったかな? それともその逆だったかな?」と混乱してしまうことがあります。正しくは、北辰が北極星を意味しています。
星神信仰は、もともと中国で発達し、天の中心である紫微宮(紫宮)のさらに真ん中にある北極星は、北の中心で瞬く星という意味で「北辰」と名付けられたのでした。「天子南面す」という言葉がありますが、これは皇帝を星々の中心にある北極星になぞらえて、この世を治める唯一の存在としたのでした。北京にあるかつての清王朝の故宮は、別名「紫禁城」と呼ばれますが、これは天子が居る侵すべからざる場所の意味です。
この北辰信仰は日本にもそのまま移入されました。『続日本記』延暦6年(787)11月5日条には、桓武天皇が交野で北辰を祀ったという記述があり、その後、毎年3月と9月の3日には、天皇自身が祭主となって、北辰に燈火を捧げる「御燈(ごとう)」という祭祀が恒例化されます。
この御燈が庶民の間に広がったのが「星祭」で、このとき、仏教と習合して北辰は妙見菩薩となります。
その後、中世の後期になって貴族社会から武家社会へと移行すると、妙見信仰は北極星を崇めるのではなく、北斗七星を崇める信仰へと変貌します。このあたりが、後に妙見北辰信仰が複雑になる原因です。
現在の千葉市周辺を支配した千葉氏や周防国を勢力下に置いた大内氏などが、この新しい妙見信仰に篤く、武士社会に妙見信仰を広める上で大きな役割を担いました。
千葉氏は、承久元年(931)に染谷川の合戦の際、妙見菩薩に姿を変えた七星七仏薬師の一つである破軍薬師の力を得て勝利したとされ、これを弓箭神(ゆみやしん)として祀りました。大内氏は、始祖である百済王子の琳聖太子が北斗七星を崇める信仰をすでに持っていたことが、聖徳太子に百済の宝剣である北斗七星剣を献じたという史実からうかがわれます。武士たちが北極星ではなく北斗七星を崇めたのは、北斗七星の柄杓の柄の先端に当たる星が破軍星と呼ばれ、敵の軍を破るという縁起担ぎから信仰されるに至ったのでしょう。
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