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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.67
2015年4月2日号
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◆今回の内容
1 大己貴と少彦名
西を向く大国主
様々な名を持つ大国主
タタラの火の粉を象徴する少彦名
2 お知らせ
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大己貴と少彦名
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【西を向く大国主】
過日の朝日カルチャーセンター湘南教室では、「お彼岸とレイライン」というテーマで話をしました。
春分と秋分は、昼の長さと夜の長さが逆転する日ですが、この日をあの世とのチャンネルが開かれる日として、彼岸の入りに迎えた先祖の霊を真西に沈む太陽とともに、西方浄土に送り届けると考えられました。
大阪の四天王寺では、「日想観」と言って、西を向いた鳥居の先に沈む太陽を拝んで、西方浄土のイメージを思い描きます。これは、四天王寺に祀られる物部守屋の霊を鎮魂するための祈りでもありました。
大陸から入ってきた新しい宗教である仏教を信奉する蘇我氏と聖徳太子の勢力に対して、古来からの神祇信仰を守ろうとする物部氏との間に起こった政争で、物部氏は破れ、これを率いていた物部守屋は誅殺されました。その霊が、聖徳太子が建立したとされる四天王寺に現れて災いを成すので、西方浄土を向いた鳥居を設け、此岸に災いをなさないように呪いを施したのでした。
西方浄土という考え方は仏教のものですが、神祇信仰やそれ以前の太陽信仰でも、昼が長くなる春分は夜が明けて生命が萌え出づる日と考えられ、秋分は昼が暮れて命が萎みはじめる日として、特別視されていました。ですから、神祇信仰の代表であった物部守屋の魂も、日が没する西にある黄泉の国に留められると考えられたのです。
黄泉の国といえば、葦原の中つ国を天孫に譲った大国主は、黄泉の国の支配者になったと記紀神話は記しています。そして、それを裏付けるかのように、大国主を祀った出雲大社の本殿の中で、祭神である大国主は黄泉の国の方角である真西を向いて鎮座しています。
これは、見方によっては、出雲大社は大国主を祀っているのではなく、黄泉の国へと落ちていった大国主が再び此岸へやってくることを防いでいるかのようでもあります。それは、四天王寺がわざわざ「彼岸=西方浄土」の方向である西を向いた参道と鳥居を設けて、物部守屋の霊に西に留まるようにという引導を渡したのと同じです。
講座で、そんな話を展開しているうちに、常連のTさんが、思いついたようにこう言いました。「大国主がいろんな名前て呼ばれるのは、実際は黄泉の国へ行ったのではなく、出雲の地から追われて、変遷していく過程で、それぞれの土地の信仰と習合していくうちに、呼び名も変わっていったのかもしれませんね」。
出雲大社の方位観については、この講座の第31回で詳述しましたが、大国主が国譲りした後の消息については、まだ触れていませんでした。今回は、Tさんの言葉をきっかけに考察したその消息について触れてみたいと思います。
【様々な名を持つ大国主】
大国主には、たくさんの異名があります。『古事記』では、大穴牟遅(おおなむち)、葦原色許男(あしはらのしこお)、八千矛神、宇都志国玉神などと呼ばれ、『日本書紀』では、大己貴(おおなむち)、大物主、大国玉などの名が見られます。また、『出雲国風土記』では所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と表現されています。
『出雲国風土記』に記された神名は、出雲国の創世神という意味ですから、これは別名として自然です。また、奈良三輪山の神である大物主は、黄泉の世界の神という意味ですから、これは記紀神話の記述に準じた名前といえます。大国玉は「大国魂」という神名の祭神として記されることがありますが、これは、出雲国の創世神という記憶を引き継いでいるものと考えられます。
さらに面白いのは、大国主の大国を音読みすると「ダイコク」になることから、ヒンドゥーの神である大黒天(マハーカーラー)と結びついて、大黒様とも呼ばれることです。七福神の大黒様は大きな袋を背負っていますが、これは、大国主が因幡の白兎の話の中で袋を背負った姿で語られていることに結びつけられたものです。
しかし、どうして大国主はこんなにも多くの名を持っているのでしょうか。
国譲り神話は、いかにも平和裏に出雲が政権を渡したように記されていますが、実際は、大和朝廷が出雲地方を武力攻略し、その後、出雲における地位を正当化するために、出雲の同意のもとに譲り受けたのだと脚色したものでしょう。大和朝廷の武力進出によって出雲の土着民たちは、散り散りバラバラになり、多くの人が海へと逃げたでしょう。
大和朝廷に追われた出雲族は、ある者は九州へ向かい、ある者は北上して能登や東北沿岸に上陸しました。そして、上陸した土地で大国主の信仰を伝えていく過程で、個々の土地の産土の信仰と結びついて、微妙に性格や名前を変えていったのでしょう。
大黒天と結びついたのも、どこかでインドを起源とする渡来民と出雲族が出会い、それぞれの信仰を集合させた結果でしょう。
松本清張は、出雲の一部の地方の言葉が東北弁に非常に似ていることから、これを『砂の器』の中で、殺人事件の謎を解くギミックとして活かしました。
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