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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.58
2014年11月20日号
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◆今回の内容
1 謎の職能集団
金売吉次
金山衆と穴太衆
2 お知らせ
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謎の職能集団
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古代から中世にかけての日本史を紐解くと、朝廷や地方豪族、さらには戦国武将や幕府の影で、彼らの富を支えていた特別な技能集団がいたことに気づきます。
たとえば、奥州藤原氏は朝廷に莫大な金を献上し、さらに自ら北東北に「黄金文化」の独立王国を築いていましたが、この栄華を支えたのは「金掘り」と呼ばれる鉱山開発のエキスパートたちでした。また、戦国時代の雄、武田信玄も領地内から産出する金銀によって潤沢な戦費を得て強力な武田軍団を組織しましたが、これを支えたのは金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山・築城技術者たちでした。関西には、高度な石積み技術を持ち、安土城や大阪城などの石垣を築いた近江の穴太衆(あのうしゅう)がいましたが(現在でも穴太衆は石積みを生業として会社組織になっています)、彼らも高度な技術を持っていた集団でした。
奥州の金掘り、武田の金山衆、そして近江の穴太衆は、いずれもその出自が不明で、歴史の表舞台に登場した時にはすでに高度な技術を携えていました。さらに、独自の情報網を持ち、時の権力者も完全な配下にはできない独立した集団でした。
【金売吉次】
奥州藤原氏と縁の深い人物に源義経がいます。義経は、平家によって父を殺され、母を奪われて、一人、鞍馬山に預けられます。その幼い義経は金売り吉次という商人に導かれて、奥州平泉に逃れ、奥州藤原氏の庇護の元に成長し、後に奥州藤原氏の援助のもとに平家討伐の兵を起こして、ついに平家を滅亡へと導いていきます。
平家討伐の立役者でありながら、兄頼朝から疎まれ、ついには奥州に逃れて奥州藤原氏とともに兄によって討ち取られる悲劇の主人公です。義経主従の奥州への逃亡にも、金売吉次は手を貸したとされています。
義経に関しては、三厩(みんまや)で頼朝軍に追い詰められて討ち取られたという話が定説ですが、塩漬けにされた義経の首が鎌倉の頼朝の元に届けられたときにはすっかり様変わりしてしまい、はっきりと義経であるとは確認できませんでした。
そこで、じつは義経は蝦夷からさらにシベリアに逃れてモンゴルの首領であるチンギス・ハンになったという、有名な「義経北行伝説」が生まれます。チンギス・ハンが義経であったという可能性はあまり高くはないと思いますが、奥州藤原氏は大陸との独自の貿易ルートを持っていましたから、幼い義経がそのルートで大陸に渡り、モンゴル式の騎馬の技術を身につけたのは、ありうる話だと思います。
平泉での義経の生活は後世にあまり伝わっておらず、鞍馬を出て平泉に到着してから、平家討伐の将として突然活躍を始めるまでは大きな空白期間があります。この間に大陸に渡り、彼の地で騎馬戦術を身につけていたとすれば、源平合戦で見せた鵯越の斬新な騎馬戦術や馬上から射る短弓の名手であったことなどがしっくりします。
義経についてはともかく、その義経の人生を大きく左右することになった金売吉次こそ、奥州の金掘り集団のリーダーの一人でした。『平治物語』では「奥州の金商人吉次」、『平家物語』では「三条の橘次と云し金商人」、『義経記』には「三条の大福長者、吉次信高」と記されています。都に豪邸を構え、朝廷に対しても大きな影響力を持っていたとされますが、奥州藤原氏、義経と運命を共にしたとされ、以降の歴史には、金売吉次の名も、彼が属していた金掘りも登場しなくなります。
宮城県金成町には、金田八幡神社があり、ここは金売吉次の居館跡と伝えられています。そして、以下のような伝説があります。
「昔、この地で炭焼きをしていた藤太という男がいた。この男の元に、三条右大臣道高の娘おこや姫が嫁いできた。おこや姫が、清水寺に参拝した際に観音様が現れて、藤太の元に嫁ぐようにというお告げがあったためだという。おこや姫は砂金を持参していて、これで米や味噌を買っておくれと藤太に渡したところ、藤太は、沼に群れていた鴨に向かって、石礫のように砂金(砂金とは言っても砂のようなものではなく小石程度の大きさの粒)を投げつけ、落ちた鴨を捕らえて帰ってきた。これに驚いたおこや姫は、金の価値を藤太に説明した。すると藤太は、そんなものなら、炭焼小屋のまわりにいくらでもあると答えた。その後、おこや姫にすすめられて、金を商う商人となった藤太は、大長者となった。その藤太とおこや姫の間に生まれたのが吉次だったという」
また、伝説のバリエーションはもう一つあって、そこでは、「吉次の両親が知恵の優れた男児を授かろうと紀州熊野三所権現に祈願したところ、橘次、橘内、橘六という三つ子を授かった。この三兄弟は才能に恵まれ、金を売る商売で大成功をおさめた後、熊野三所権現をこの地に勧請して熊野三所宮を創建した」とされています。
前者の伝説では、炭焼きの元に右大臣の娘が嫁ぐというのは、常識的にはありえない突飛な話です。しかし、奥州の金に朝廷が注目していて、藤太とおこや姫の結婚が金を手に入れるための政略結婚だったと考えれば、伝説の意味するものが見えてきます。「炭焼き」の仕事は、ほとんどの時間を山で過ごします。木の伐採から選別、窯焼きをして、山の中で製品としての木炭を作って里へと降りてきます。これは金掘りも同じで、掘削から選別、ときには精錬までも山の中で行い、製品としての金を持って里へと降りてきました。ですから、「炭焼き」は金掘りの暗喩と考えられます。
また、藤太の「藤」は、もともとは「淵」のことで、藤の名を持つ者は水脈を探し当てる技術者のことでした。さらに、地質から水脈を判断する彼らは、鉱脈を探す技術者でもありました。つまり、「炭焼き藤太」という名そのものが水脈と鉱脈探しの技術者であり金掘りであることを伝えているのです。
また、もう一つのバリエーションでは熊野が登場しますが、これは、東北の金掘りたちのルーツが紀州の熊野にあったことを暗示しているものと考えられます。
そもそも鉱山技術は、秦氏や賀茂氏といった渡来系の技術者たちが大陸から日本へともたらしたもので、山を修行場とする修験者に受け継がれました。畿内では吉野から熊野へと紀伊半島の中部を縦断する「奥駈け(おくがけ)」が修験修行として有名ですが、そんな熊野の修験者たちが、海を渡って伊豆に上陸し、さらに内陸へと進んで、東北の修験道の中心地である出羽三山を開きました。そのことからすれば、吉次の両親が熊野三社を奉じていたのは、彼らの出自が熊野修験に発しているためとも考えられます。
奥州の金は、奈良時代の聖武天皇の時代に都へもたらされました。聖武天皇在位の時代、飢饉や疫病が続き社会が疲弊していました。この役を祓うために聖武天皇は東大寺大仏の建立を計画します。高さ15m近くになるこの大仏全体を鍍金するために、大量の金が必要になりましたが、当時は国内に産する金は非常に少なく、そうでなくとも財政が逼迫しているのに、大量の金を大陸から輸入しなければなりませんでした。ところが、そんなとき、奥州から大量の金が献上されたのです。
当時、聖武天皇の側に仕えていた大友家持は、「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く」という歌を詠んで、これを寿ぎました。また、大仏建立と奥州からもたらされた金=宝を記念して、聖武天皇は年号を「天平勝宝」とあらためました。このときの天皇や貴族、都人たちの喜びがいかに大きかったかがわかります。しかし、これによって、当時蝦夷と呼ばれた東北に注目が集まり、後の朝廷による東国侵略が進められていくのは歴史の皮肉といえるでしょう。
現在、東北の金掘りたちの痕跡は、地名や神社の名に残っています。先に挙げた吉次の出身地とされる「金成」と同じ地名は東北地方を中心に18ヶ所、さらに金成が変化したと思われる「神成」という地名も全国に18ヶ所あります。
また、東大寺大仏鍍金のために献上された金が産出されたことを記念して、天平21年(749)、現在の宮城県遠田軍涌谷町に黄金山神社が建立されたのをきっかけに、各地に鉱山の神である金山彦神を祀る神社が建立されていきます。これらも奥州の金掘りたちの痕跡といえます。
ちなみに、金山彦は日本神話に登場する神で、伊耶那美命(いざなみのみこと)が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んで、ホト(陰部)を火傷して亡くなる際に、吐いた吐瀉物から生まれた神とされています。これは、金をはじめとする地下資源が、火山活動によって生成されることを物語っています。たぶん、日本神話以前から金掘りのような鉱山技術者たちに信仰されていた鉱山神を日本神話が成立する過程で剽窃したものでしょう。
【お知らせ】
●朝日カルチャーセンター湘南教室 12月20日
「伊豆の太陽信仰」
伊豆半島には、太古の太陽信仰を色濃く残す聖地が点在していま
す。伊豆半島開闢の女神を祀る白濱神社、冬至の太陽を迎え入れる
縄文祭祀遺跡の中にある八幡宮来宮神社、そして、五穀豊穣・子孫
繁栄を願う奇祭「どんつく祭」のご神体を収めるどんつく神社…。
これらの聖地を中心に、伊豆半島独特の来宮(きのみや)信仰、三島
信仰、伊豆山信仰について解説します。伊豆半島は、川端康成をは
じめ、多くの文人や芸術家に愛され続けてきました。その魅力の源
流も明らかになってきます。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=260771&userflg=0
●第三回伊豆急レイラインツアー 12月22日
伊豆急主催のレイラインツアーの三回目は、下田から南伊豆の聖地を巡ります。
開催日はちょうど冬至に当たり、この日は伊豆の守護神を祀る白濱神社では、参道の先に沈む夕陽が見られます。渡来民がもたらした来宮信仰や伊豆創世に関わる三島信仰の聖地を訪ねた後、太陽の再生と新しい年を迎える浄化を合わせて願う白濱神社の冬至参拝をフィナーレに、充実した一日を体験いただけます。
http://www.izukyu.co.jp/kanko/leyline_3rd/index.html
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