昨日は東京でも木枯らしが吹いて、一気に寒くなった。数日前から寒気がしたり、朝起きると嫌な寝汗をかいていたりして、「危ないな」と思っていたら、案の定風邪をひいた。
一昨日、ツリーイングのイベントがあり、セッティングやサポートで重労働した余波で、ビタミン剤の大量ドーピングも甲斐なく、昨日は、木枯らし吹きすさぶ音を聞きながら、出かけることは諦めてフランシス・フクヤマの『歴史の起源』を読んでいた。
「政治制度というのは必要なものだが、あるのが当たり前というものではない。市場経済や豊かさというのは、邪魔な政府を押しのけたら魔法のようにして現れるものではない。自由な市場とか強い市民社会、大衆の間に自主的に生まれる知恵…といったものは、民主主義が機能するのに、すべて重要な役割を担っている。しかし、いずれも組織化された強力な政府の代替にはならない。近年、経済学者の間では、「制度が重要だ」という認識が広く生まれている。貧しい国は資源がないから貧しいのではない。政治制度が機能していないから貧しいのだ。したがって、政治制度がどのようにして生み出されたのかをもっと理解する必要がある…」といった書き出しで始まるこの本は、20年前に、世界を覆った自由化の波が民主主義をもたらす代わりに、民族主義や原理主義を台頭させるきっかけになると喝破した『歴史の終わり』をさらにパワーアップして、グローバリズムの矛盾や、自由民主主義の劣化という現実を抉っている。思わず、興奮して熱が上がってきた(笑)。
そのまま気を失うようにして眠ってしまい、気がついたら、とっぷり日が暮れていた。
あいかわらず外は木枯らしが吹いて、電線が甲高い音で鳴いていた。
まだ熱があるようで、現と幻の間を行きつ戻りつしていたら、ふと、懐かしい夜鳴き蕎麦のチャルメラの音が聞こえた気がした。
小学校の5年生か6年生の頃だ。ちょうどこんな寒い夜に、実家の前の道を夜鳴き蕎麦の屋台の軽トラが通りかかると、ぼくは千円札を母からもらい、アルマイトの鍋を抱えて飛び出していった。
そして、近所の空き地で屋台を捕まえると、鍋いっぱいにラーメンとおでんを入れてもらって、それを持って走って家に戻った。
茨城県の片田舎で、市街地からも離れた山間の集落にその夜鳴き蕎麦がやってくるのは、木枯らしが冷たくて、誰も表に一歩も出たくないような夜に限られていた。たぶん、いつも巡る市街地では売れなくて、夜鳴き蕎麦を珍しがって買い求めに出てくる山間にやってきていたのだろう。
寂しく寒い木枯らしの夜に、温かいラーメンとおでんが山盛りの鍋を抱えていると、とても満ち足りた気分になった。
あれは40年以上も前のことだ。千円でお釣りがくるほどの値段で、五人家族が寒い木枯らしの夜を温かく幸せな気持ちで過ごせたのだから、ほのぼのとしたいい時代だった。
あの頃と比べて、日本の政治は民主的になったのだろうか? たぶん民主的になり、社会は豊かになったのだろうが、政治も社会も劣化し、心は貧しくなってしまった気がする。
そんなことを思いながら、また読書に戻った。
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