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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.51
2014年8月7日号
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◆今回の内容
1 ヌミノーゼと土地
・ヌミノーゼ=神的なるもの
・土地に漂うヌミノーゼ
3 お知らせ
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ヌミノーゼと土地
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今年も暑い夏になりました。四国では台風の余波の大雨が続いていますが、大きな災害に繋がらないことを祈っています。
暑い夏といえば、恒例の昭文社「ツーリングマップル中部」のオートバイによる実走取材が始まり、この記事もその合間に書いています。私が担当する中部北陸は、高原地帯が多いので、畢竟、涼しい高原ばかり縫っていくことになります。
今朝は、長野県茅野市の…というよりもビーナスラインの起点に当たるといったほうがわかりやすいかもしれませんが…白樺湖で朝を迎え、ご来光を拝んでから美ヶ原まで走りました。気温は10℃を少し切るほどで、吐く息がヘルメットのシールドを曇らせるほど。メッシュジャケットの内側にウインドブレーカーを着込んでも震えるほどでした。
白樺湖畔では柔らかな日差しが湖面に輝き、鳥の囀りが木霊して、穏やかな朝だったのが、北上するにつれてガスが濃くなり、美ヶ原ではオートバイごと吹き飛ばされそうな突風が吹き荒れ、体温を奪われて歯が合わないほどの寒さです。
美ヶ原は、一度天候が荒れるとその名とは裏腹の厳しい姿を見せます。吹き荒れる風の前に立っていることもできず、濃いガスに巻かれれば、だだっ広い尾根で方向が定まらなくなってしまいます。かつては、ここで何件も遭難死亡事故が起こりました。車道が通り、トレッキングコースが整備された今は、さすがに事故はほとんど起
きなくなりましたが、襲いかかる強風になすすべもなく屈んでしのいでいると、どんなに文明が発達しても、所詮人間は大自然の前には無力な存在なんだと思い知らされます。
尾根の縁にある駐車場の片隅で、そうやって風に耐えていると、突然ガスが途切れて、朝日に輝く麓の町とその先の山々がが浮かび上がってきます。その瞬間は風も止み、無音の中で、突然眼前に開けた光景から光が踊る軽やかな音が聞こえてくるように感じられます。こういう瞬間をエピファニー(神の顕現)と呼ぶのでしょう。
神道でいえば、風の吹き荒れる美ヶ原を支配しているのは「荒御魂(あらみたま)=荒ぶる神」であり、エピファニーを見せるのは「和御魂(にぎみたま)=恵み深き神」です。
昔の人達が、自然現象はその背後にある「神」という崇高な存在の意志表示なのだと、考えたのは至極当然だといえます。
しかし、その素朴な畏怖の感情が、特定の神という存在に置き換えられると、排他的な宗教になってしまいます。
煎じ詰めれば、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、そして仏教や神道も「自然現象に対する畏怖」という同じ根っこから成長したものです。ところが、それぞれの宗教の「神」は違った形のものとなり、今のキリスト教社会とイスラム原理主義との戦いのように、極端に排他的な位相に置かれてしまったりもします。
そんな相克を乗り越え、新たな「神性」を打ち立てようとしたのが、ドイツの宗教哲学者、ルドルフ・オットーでした。
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