明治末から第二次大戦の終戦間近まで、中国に日本が持っていた権益の象徴ともいえる南満州鉄道(満鉄)があった。そして、その中に「満鉄調査部」と呼ばれる一種のシンクタンクがあった。
満鉄調査部は、満鉄周辺に限らず、広く大陸全体を対象にして、地理や歴史、文化さらに政治や社会情勢をカバーしていた。ガチガチの戦時体制下にあっても調査部の部員は自由に活動することを許され、国内にいたら特高警察に検挙されてしまうようなリベラル派から右翼思想家まで幅広い人材が蝟集し、梁山泊のように不可侵の聖域を守っていた。戦後、歌手になった東海林太郎、「デルス・ウザーラ」を翻訳した作家の長谷川四郎なども所属して、自由な気風が横溢していたという。
そんな中に、戦前の共産党シンパだった小林庄一氏もいた。早い時期に共産党には幻滅して、中庸の立場になっていたが、それでも国内では不自由なことが多く、満鉄調査部に身を寄せ、近代の政治思想史や国際関係を研究した。
戦後は、政治評論家として活躍する傍ら、三木武夫のブレーンとして、政策決定にも深く関わっていた。あの燃えてしまったホテルニュージャパンに一時事務所を構え、後には日本記者クラブを根城のように使っていた。
不思議な縁で知り合い、時々、記者クラブのレストランでご馳走になったり、主催されていた研究会を手伝ったりしながら、満鉄時代の思い出話などを聞いた。まだ20代の半ばだったぼくは、戦時下にリベラルな人たちが自由に生きていた世界があったということに驚き、その環境で仕事ができた小林先生の人生を羨ましく思った。
「日本はね、真の意味での市民革命…市民が血を流して自由を勝ち取る革命を経ていないから、いつまでたっても封建時代のままなんだよ。きみら若いもんが武器を持って、本物の革命を起こさなければダメなんだ」などと、突拍子もないことを言うかと思えば、若い頃は文学青年で、川端康成に師事しようと思って訪ねると、手を取られて言い寄られたので、文学の道は諦めたといった、嘘か真かわからない話で笑わせ、「ほんとは、アナトール・フランスのような作家になりたかったんだ」と、しんみりと呟く。
小柄な体に擦り切れたツイードのジャケットを羽織り、いつも、付箋をたくさんつけた書類と本をたくさん抱え、あちこちのシンポジウムや勉強会に顔を出して、最新の世界情勢を追うことに余念がない。ひたむきで穏やかで、しかしシャープな、不思議な魅力を持った人だった。
亡くなる数カ月前まで矍鑠とされていて、「21世紀はグローバルネット社会になる。既成の政治勢力や政治的文脈は廃れて、まったく新しい、個人を中心にしたパラダイムが実現する」と、長年、自分がイメージしていた理想の社会が生まれようとしていることに目を輝かせ、当時、80代半ばにしてコンピュータの専門学校に通い始めるなど、信じられないほど精力的だった。
惜しくも20世紀の幕開けを待たずに亡くなられてしまったけれど、そんな小林先生の生きざまは、ぼくにとって今でも大切な見本となっている。
20年ほど前のある日、「渡したいものがあるから」と記者クラブに呼び出された。レストランの席に向かい合って座ると、唐突に、「きみは、いつか、徐福をテーマにする日が来るよ」と切り出し、分厚いA3サイズの用紙を二つ折りにしたコピーの束を差し出した。
大きなクリップで留められたそのコピー束の表紙には、「徐福」という二つの漢字だけが書かれていた。
「徐福はね、歴史の本質を体現しているんだ。徐福を研究すれば、日本と中国の歴史の根源が見えてくる。そして、権力者の愚かさがね」
そのときは、まったく意味がわからなかった。
だけど、あれから長い年月が経ち、小林先生の予言が現実となり、ぼくは徐福と向き合うことになった。
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