郷里が水戸に近いこともあり、子供の頃から水戸光圀という人間に漠然とした崇敬を感じていた。
幕府にあっては辛口のご意見番で、将軍にも平気で苦言を呈し、領地にあっては殖産興業の開発や水利事業の推進、文武両道の学校政策、西山荘に隠居後は身分の隔てなく領民と接して自ら米作りや野菜作りに精を出し、うどんを打って隠居所を訪れる人にふるまった。そして、何よりあの大日本史という大文化事業を行った。
若い頃は手の付けられない傾奇者で、江戸市中で辻斬したり、派手な衣装で登城したり放蕩に耽ったのが、一転して儒教と詩歌にのめり込む。
たんに「型破り」というだけでは言い表せない、振り幅が極端なその生き方に、何か共感させられるものがあった。
そんな光圀に対する昔からの思いに加え、レイラインハンティングという聖地を巡る旅をしていく中で、光圀の事績としばしば出会い、さらに興味を持っていた。
光圀は、晩年に従者を引き連れて鹿島神宮に参拝に行き、ここにある要石を掘り起こそうとした。要石は、地下に蠢く大鯰の頭を押さえて地震を防いでいると伝えられていて、重要なご神体でもあり、これに触れることはタブーだった。その聖石を人足を雇って掘り出そうとしたものの、七日七晩かけても底が見えなかったのでついに諦めたという。その後、鹿島周辺を巡って、元鹿島神宮といわれる場所を訪ねたり、史料を集めたりしている。
また、晩年を過ごした西山荘は水戸城の北東鬼門を押さえる位置にあるが、これは茨城県北部の竪破山と水戸城を結ぶラインのちょうど真ん中になっている。竪破山は坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐に向かう際に、戦勝祈願すると同時に防備のための結界の印とした山で、以後、武家の尊崇を集めていた。頂上には奇岩が累々として、この世ならぬ魔界のような雰囲気を漂わせている独特の場所だ。
光圀は、どうも巨石遺構に興味を持っていたようで、鹿島神宮の要石や竪破山の他に、西山荘の北西に位置する巨岩の山を自ら陰陽山として開き、ここに陰陽神社を置いたりしている。
光圀は、物事を徹底して突き詰めて考える質だったので、皇統を神話時代にまで遡る『大日本史』(光圀の時代には『本朝史記』と呼ばれた)を編纂するうちに、神道思想の根底にある磐座=巨石信仰にも興味をもって、自ら巨石が神の依代となる原理を追求してみたのかもしれない。そのあたりのことは、いずれ、「光圀別伝」のような形で著してみたい。
さて、この『光圀伝』だが、これは、ぼくが素朴に興味を持った光圀という人物について、その振幅の巨きな生きざまを生み出した心の動きが描かれている。
水戸徳川家初代の頼房の三男として生まれた光圀は、次男が幼くして亡くなり、長男の頼重が幼少時に病弱だったことから二代目を世襲することになる。しかし、頼重は存命し、光圀は兄を差し置いて家を継いだことを後ろめたく思う。
正々堂々と生きたいという思いとは裏腹に、自分で「不義」だと思う宿命を背負わされ、それがやり場のない怒りとなって、若い頃の非行に走らせる。それがあるとき、『史記』「伯夷伝」を読んだことで、不義を晴らす大義を見つけることに心を動かす。
伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)は、古代中国孤竹国王子の兄弟。伯夷が長男、叔斉は三男だった。父王から弟の叔斉に譲位することを伝えられた伯夷は、自分がいては叔斉が後ろめたく思うだろうと出奔する。ところが、叔斉も兄を差し置いて位に就くことを潔しとせず。王位を捨てて兄を追う。王位は次男が継いだが、伯夷と叔斉は、そのまま放浪者として他国を渡り歩き、最後には西山に隠者として篭もり、ここで餓死する。
光圀はこれに感銘し、自らは幕命によって藩主となったために、出奔すればお家断絶となってしまうので、水戸家を守りつつ、兄への不義を晴らす方法を探すことになる。
子供の頃から武勇を持って知られ、戦国の世に憧れていた光圀は、武で天下を取る時代ではないと、関心を詩歌に向ける。そして、詩歌から史書、儒学で天下を取るという野望を抱く。その思いが終生を貫き、『大日本史』へと繋がっていくことになる。
光圀は自らが藩主の座を襲った不義を正すために兄頼重の息子を養子にして、これを水戸藩主とする。兄のほうは光圀の息子を自藩讃岐高松藩主としてこれに報いる。両者の大義は当時の人々に深い感銘を与え、後々までも義を尽くすことの見本として伝えられることになる。光圀がどのようにしてその大義まで辿り着いたのか。光圀一人の着想ではなく、そこには、光圀を取り巻く人達の様々な助言や助力があったことを伝える。とにかくどこまでも真っ直ぐに生きようとした光圀だからこそ、人の縁に恵まれ、その人達に活かされていく。また逆に、人を活かしてもいく。
光圀は、生涯で47人の人間を自ら手にかけた。それは不義に堕ちた人間を自ら冥土に送る温情だった。誠心誠意、義に生きた光圀は、「義公」の諡号を得た。
『大日本史』を精神的な支柱とする水戸学は、尊王思想の温床であることは避けられず、江戸末期には尊王革命の火が当然のように水戸学から立ち上る。そして、最後の将軍である徳川慶喜が水戸藩から出た唯一の将軍として、大政奉還を行うことになる。光圀の時代からすでにその芽がもたげていたことを『光圀伝』はその深層で語る。
751ページの大著だけれど、一度ページを開いたら最後までページを捲る手を休ませてくれない。そして、一気に読みきったとき、光圀に体現される日本という国の歴史の大きなブロックが心のなかにずっしりと重みを持って落ちてくる。高校時代に『龍馬が行く』を一気に読み通して、心を震わされた感覚が蘇ってきた。
日本の歴史書の多くは「編年体」で記されている。これは歴史の出来事を年代順に記述していくものだ。『大日本史』は、編年体ではなく「紀伝体」で記されている。紀伝体は、年代を追いながらも、その時代に生きた人間たちの生き様を丹念に記すことで歴史を語ろうとする。だから、紀伝体の歴史書は膨大なものになる。光圀は、自らが紀伝体の『史記』に大義を見つけ出したことで、紀伝体でなければそこから歴史を学び、今に活かすことはできないと、『大日本史』を紀伝体で記すことにする。結局、これが完成するのに、編纂の開始から200年という時間が必要だった。
『光圀伝』ももちろん紀伝だ。ここに描かれる光圀から、今に生きる僕たちは多くを学ばされる。
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