今年の夏はお盆に帰省できず、まともな墓参りもしばらくしていなかったので、秋の彼岸に久しぶりに帰省することにした。
実家に着いて、仏壇に線香を備えようとしたが、ロウソクが見つからない。仏壇周りの引き出しを開けると、ロウソクの代わりに、紙縒りで閉じた古い書類のようなものが仕舞われていた。
この紙束を取り出してみると、黄ばんで、ところどころ紙魚に食われた半紙に、金釘流の毛筆で「履歴書」や「看護婦試験受験願」と表題が書かれた書類があり、その間には「看護婦試験及第證」と「助産婦試験及第證」の賞状、手札サイズの「看護婦免許」が挟み込まれていた。
これらは23年前に亡くなった祖母のものだった。
明治30年生まれの祖母が、16歳の時に単身上京して産婦人科医院に住み込みで看護婦や助産婦の勉強をして資格をとったことは、祖母からよく聞かされていた。
子供の頃、虚弱だったぼくは、よく熱を出して学校を休んだが、そんなとき祖母は、微熱でへこたれているぼくに向かって、「昔は、学べるということはとてもありがたいことで、私は少しぐらい熱があったって、学校までの4里の道を通ったもんだよ」と、あきれ顔で言ったものだった。
祖母は、幼い頃から勉強好きで、女学校に進学して先生になるのが夢だった。ところが高等小学校を卒業して、女子師範学校へ進学するというその時に父親がなくなり、夢が絶たれてしまった。それでも、まだまだ学びたいという思いの強かった祖母は、志望を看護婦に変え、東京に上京した。
祖母が住み込みで働きながら勉強したのは、本郷の西片町にあった医院で、帝大(東大)が近く、学生下宿が多かったという。「私が夜学から帰るときにも帝大生の下宿には明かりが点いててねぇ、あんなふうに、勉強に専念できる帝大生が羨ましかったよ」と、懐かしそうに言っていた。
祖母が亡くなって、遺品を整理した時には、看護学校の夜学に通っていた時のノートが出てきて、それにはびっしりとドイツ語と日本語の書き込みがあり、祖母がいかにまじめに学び、そして学ぶことが好きだったのかがそのノートから伝わってきた。ぼくが姿を知っている祖母も、家事の手が休まると、新聞を開いて隅から隅まで舐めるように読んでいて、それは94歳で亡くなる少し前まで変わらなかった。70代半ばで白内障の手術を受けてからは、分厚いメガネに大きなルーペを合わせて活字を追い、時々、チラシを閉じた自家製のノートにメモをとっていて、「そんなのに書かないで、これ使いなよ」と普通のノートをあげると、とても喜んだものだった。
ようやくロウソクを見つけ、仏壇に線香をあげて手を合わせると、そんな懐かしい祖母の姿が、次々と思い浮かんできた。
その夜、夕食を終えると、母が急に思い出したように、席を立ち、仏壇のほうに向かいながら言う。「そういえば、おばあちゃんの遺品が出てきたんだよ」。ぼくは、すぐに気づいて「看護婦免許やなんか?」と答えると、「そうだけど、もう見つけたの?」と母は驚いて答えた。
ぼくが、ロウソクを探していて偶然見つけたことを話すと、母は「あんたはおばあちゃん子で、おばあちゃんもあんたをいちばん可愛がってたから、自分から見せてあげようと思ったんだね」と、しんみり答えた。つい数日前に、家を片付けていると、まだ開けていない小さな行李が出てきて、その中にこの書類が大事に仕舞われていたのだという。母は、これを見たらぼくが喜ぶだろうと、仏壇の下の引き出しに移しておいたのだが、祖母はけっこうせっかちなところがあったが、きっと、母に任せておくとぼくに見せるのを忘れてしまうのではないかと思って、先にぼくに教えたのだろう。
最近、ネットで世界各国の大学の講座が視聴できる"Cousera"などの"massive open online course"が、急速に普及している。ぼくも、そんな中から、いくつか講座を受講し始めたけれど、祖母が今の時代に生まれていたら、どんなに生き生きと様々なことを学んでいただろう。今になって、こんな祖母の形見が出てきたのは、最高に恵まれた環境にありながら漫然と時を過ごしていたらバチが当たるぞという祖母のメッセージなのかもしれない。
明治の末年から、大正の初期にかけて、まだ女性が勉学することが一般的ではなく、向学心に燃えた女性は白眼視されていた時代に一人で頑張っていた祖母、そんな祖母の姿を思い浮かべて、あらためて誇りに思う。
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