文革の時代、内モンゴルの草原に下放された北京の知識青年陣陣(チェンジェン)。彼は、遊牧民の老人から、草原の様々なしきたりがオオカミによってもたらされたことを教えられる。
そして、彼は自らオオカミの子を手に入れ、これを飼うことで、モンゴル族たちが神と崇めるオオカミの気高い精神に触れていく。
草原という環境の中で、野ねずみやタルバガン、黄羊、そしてオオカミがそれぞれどのような役割を持って環境に溶け込んでいるか、そして、その環境を維持しながら羊や牛、馬を飼い慣らす遊牧民の智恵が明らかになる。草原はとても繊細で微妙なバランスの上に成り立っている。このバランスをほんの僅かでも崩せば、草原は不毛な砂漠に姿を変えてしまう。
物語の大半は、北京という都会で生まれ育った陣陣と彼の仲間たちが、草原での体験から自然環境の脆さを知り、これを破壊する中国共産党の政策に対して疑問と反感を募らせていく環境擁護論的なストーリーとなっている。
文革というと、映画『芙蓉鎮』で描かれたように、教養のない農民や若者が暴発し、理不尽な暴力に明け暮れた時代で、知識人たちは、ただ首をすぼめて嵐が止むのを待っていたような印象がある。
でも、陣陣たちは自ら進んで、文革の嵐の中でも比較的風が穏やかな辺境の草原に逃げ込み、そこで、密かに持ち込んだ「反動的」な書物をじっくりと読み込む時間を持つ。ポルポトに率いられたクメール・ルージュが知識人を皆殺しにしたように、文革に晒された知識人たちも、紅衛兵によってただ羊のように虐殺されたのかとも思っていたが、陣陣たちのそうしたしたたかさに、思わず笑みがもれる。さらに中央の目の行き届かない内モンゴルの辺境では、そこに住むモンゴル族たちも鷹揚で、陣陣たちを優しく見守っている姿に、人間本来の良心が浮き出ていて、安心させられる。日本でも、軍部が台頭しはじめた1920年代から30年代にかけて、左翼思想家に対して大弾圧が加えられるが、その網をかいくぐって満州鉄道に潜り込み、ここを梁山泊として活動した「満鉄調査部」のような例もあり、知恵を使って生き延びる者こそが本物なんだなと思わせる。
文革が終わり、北京に戻った陣陣は大学で中国の歴史と体制を研究する学者となり、草原で同じ10年間を過ごした楊克(ヤンカー)は法律を学んで、弁護士となる。
物語の終盤は、現在の中国という国の体制を担うポジションとなった二人が30年ぶりに草原を訪ね、自分たちの体験を振り返りながら、中国という国の指針としてその体験をどう活かしていくべきかを語り合う。
終盤までは、一貫して優しく繊細に草原という自然環境と遊牧民の宇宙観を見つめ続け、一種の「総括」ともいえる終盤に、政治的アジテーションともとれる論調になる。
「どんなに強くて勇敢な民族でも、世界でもっとも広い耕地と農耕にはまり込み、さらには儒家精神の枷をはめられたら、何世代か後には狼性が必然的に退化していく…」
漢民族の伝統ともいえる農耕を基盤とした文明と儒教精神が、漢民族を羊性の弱々しい民族に貶め、それが近代から現代にかけて中国が世界の趨勢から遅れをとった原因だとする。そして、今こそ、漢民族が遊牧民族によって「輸血」され、その血に秘めていた狼性を蘇らせ、雄々しく世界に打って出るべきだとする。
ジャレド・ダイアモンドは、『銃・病原菌・鉄』の中で、世界四大文明のうちで中国文明だけが5000年以上の長きにわたって命脈を保っていることと、何度もヨーロッパまでその範図に収めながら、なぜか潮が引くように自ら引いていってしまうことが謎であるとしたが、本書には、その謎の一つの答えが明確に示されている。
主人公の陣陣たちは、今、まさに中国という大国を動かす中枢を占める世代となっている。本書は、そうした世代を中心に熱狂的な支持を集め、海賊版も含めて2000万部以上が中国で読まれたという。
下放されながらも、その下放先でしたたかに学び、考えた陣陣たちは、漢族の弱点を徹底的に考え抜く。そして、元や清といった世界帝国を築いた遊牧民を手本に、さらには日本の明治維新の底流にある精神風土を手本にして、新しい中国を形作っていくのだと呼びかける。
「中華人民よ、オオカミ・トーテムの精神で武装した『新人類』たれ。そして、オオカミのように闘え」
今の日本では、中国の膨張主義を急速に経済発展を遂げて驕っているだけだと単純に思い込んでいる。そして、思想的な根拠には、昔ながらの単純な中華思想があるだけだと、たかをくくった見方をしている。
だが、本書を読めば、今の中国の指導層がそんな単純な視点で動いているのではないことがよくわかる。彼らは、徹底的に考え抜いている。そして、「中国が現在有している国土は、漢民族の漢朝が切り開いて、戦費と漢民族が姻戚関係を結んだ唐朝が拡大し、さらにモンゴル族の元朝が拡張して、最後は満州族の清朝によって回復し、拡大して、しっかり守ってきたものである…」という世界観を基盤に、新たな汎アジア主義を築こうとしていることが明らかだ。
2003年に本書が出版されてから10年。この10年の中国の動向をみると、文革が毛沢東語録をバイブルに推し進められたように、本書に記された精神を旗印にして中国が突き進んでいるという印象がはっきりする。
先占だけを根拠に領土問題を捉えるようなちっぽけな世界観しか持たない羊の国の今の日本では、狼性を取り戻した大中国に今度こそ飲み込まれてしまうかもしれない。
日本は、すでに大アジア主義を掲げて大陸へと侵攻し、結局敗退した苦い経験がある。今は、中国の大アジア主義を逆に受け止める側となって、どう対処すべきか、感情論に走るのではなく、自らの過ちも含めて冷静に分析し、考えていかなければならないだろう。
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