今日は、久しぶりにビールを仕込んだ。
料理するのも、ジャムやら漬物やら梅干しやらと加工食品を作るのも好きなのだが、それは、幼い頃に祖母にいろいろと仕込まれたことに起因している。
生まれ育った茨城の実家には、30坪ほどの家庭菜園程度の畑があり、鶏も飼っていた。すべて、祖母が管理していたもので、両親が共稼ぎの公務員だったせいで、祖母に育てられたぼくは、物心ついたときには祖母の畑仕事の弟子になっていた。
もっとも、祖母は農家の生れではなく、女学校を卒業すると東京に出て看護学校を卒業し、ずっと助産婦をしていたので、畑仕事に精通しているというわけでもなかった。また、先天的に嗅覚がなかったので、料理の味付けなどは極めて大味で、ぼくが小学校に上がる頃には、仕上げの味付けはぼくの担当になった。
祖母が庭に小さな畑を作ったのは、戦前戦後の食べ物のない時代に、なんとか一家が口にするものを自給しようとしたことがきっかけで、近所の農家の人たちに教わりながら一つ一つ畑仕事を覚えていったという。それが戦後もそのまま残り、祖母にとっては野菜を育て、鶏の世話をすることが、そのまま習慣になった。
畑ではきゅうりやナス、大根、人参、豆類、ニラ、キャベツ、いも類など手当たり次第に作っていた。小さな畑だったけれど、祖母と両親、それにぼくと妹の5人家族の野菜と卵はほとんど賄えていた。購入する食品といえば、魚や肉、それに主食の米と調味料くらいで、野菜類はいつも豊富にあった。
作った野菜はけっこう余り、それはぬか漬けにしたり、冬なら地面を掘って土をかけておけば、いつまでも新鮮なままで味わうことができた。また、野菜以外にも、柿や梅、スモモ、イチジクなどの木もあり、渋柿の皮を剥いてタコ糸に並べて吊るして干し柿にしたり、梅がとれると梅酒や梅干しを作った。
いったい、一家5人の食費はいくらぐらいだったのだろう。祖母が几帳面につけていた家計簿を残しておけば、はっきりしたのだが、それは多分、祖母がなくなってから引越しをしたり、実家を建て替えたりしているうちにどこかに無くなってしまった。だけど、今と比べれば驚くほど少なかっただろうことは間違いない。
食費もそうだが、水道(水道は集落の共同井戸で共益費として計算していた)や、電気、ガスなどのエネルギーコストも今とは比較にならないくらい安かったはずだ。それでいて、生活はとても充実していたし、心も豊かだった。
どうすれば、あの頃のように生活そのものが充実して落ち着いたものにできるのだろうと、ビール酵母が呼吸する音を聞きながら、ぼんやりと考えはじめた。
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