ときどき、自分の行動を些細な部分まで見なおして、知らぬ間についてしまった習慣を自覚して、そこから離れてみる。
例えばPCを開いて書き物をしているときに、ふと行き詰まったとき、そのまま次の言葉が出てくるのを待てずに、ブラウザに切り替えてSNSに繋いでしまったり、人のブログを読みふけってしまったり…。
タッチパッドに触れてカーソルをほんの少し動かすだけでエディタとブラウザーの切り替えができてしまうのが曲者で、さもリニアに作業を続けているような気分で、道草にはまりこんでしまう。
集中すれば、1時間で済むようなことが、そんなつまらない習慣化してしまった気晴らしに流されてしまうことで、倍も3倍もの時間を浪費してしまうことになる。
そこで、ノートを傍らに置いておき、文章に行き詰まったときにタッチパッドに触れる代わりに、そのノートを取って、何でもいいから文字を書くようにしたら、集中が途切れることなく作業が進むようになった。
今は、「聖地」に関して今までの知見を整理し、初歩の「聖地学講座」といったようなものにまとめようと思って作業をしているのだけれど、寄り道せずに作業を続けてみると、ディスプレイの文章の続きがノートの走り書きになり、またディスプレイに戻るといった形で、デジタルとアナログの妙なハイブリッドになっている。だけど、これが思考プロセスをそのまま反映したような効果が出ていて面白い。
TBBTのシェルドンとレナードが、同じようにディスプレイに向き合ってタイピングしていたかと思うと、腕組みしてしばらく考えて、今度は傍らに置いたミードのマーブルノートを取り上げて数式だかアルゴリズムを走り書きして、またディスプレイに戻るといった作業を続けていて不思議に思ったけれど(理系オタクの生態をあれだけ克明に描いているTBBTだから、あのスタイルが今の若い理論物理学者たちの日常風景なのだろう)、自分で同じような様式に嵌ると、そのほうが自然なのだとわかった。
と、これは、どうでもいいようなことだけれど、いつものようにブラウザーの道草に流されていたら、こんなことにも気づかずにいただろう。
「便利」というやつが案外曲者で、マルチタスクを簡単に切り替えられるPCだからこそ、ちょっとした行き詰まりで気晴らしに走ってしまい、それが習慣化してしまう。テレビを始めとした電化製品のリモコンしかり、車での移動もしかり、それに電子レンジでの調理にしても、「便利」と引き換えに、何か肝心なものを失っている。
今はちょうどGWでもあるし、抜本的に、習慣化してしまった作業を見なおして、別なものや別な方法に置き換えてみようと思う。
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