311当日の朝、ぼくは夢にうなされて飛び起きた。
その夢というのは、33年前の今日亡くなった父の夢だった。
生まれ育った懐かしい茨城の家の庭。そこは昔そのままに父が丹精込めた盆栽や万年青などで埋め尽くされている。
その庭にぼんやり佇んでいると、盆栽の鉢を抱えた父がこちらに向かって歩いてくるのが見える。その様子がどうもいつもの父とは違う。
そばまで来ると、父は恐ろしい形相でぼくを睨みつけた。手に持っているのは長い棘の生えたサボテンで、それを、憎々しそうにぼくの半袖から出た素手の腕に押し付けてきた。
そのあまりの痛さと、恐ろしい父の形相、そして理解しがたい父の行動に恐怖し、悲鳴を上げる。
その自分の叫びで飛び起きた。
33年前に父が亡くなってから、夢に出てきたのは、それが二度目だった。
後から考えてみると、311の震災が起こることをわざわざ伝えに来てくれたのかとも思えたが、それにしてももう少しほかに穏やかな伝え方があっただろうになどと、後に帰省した際に母に話をした。
すると、母は、
「なに? あんたの夢には、あんまりお父さん出てこないの? 私は、亡くなってから、毎日夢に出てきて、いつも話してるよ」
と、さらりという。
「お父さんが亡くなってから、いろんな人が寂しいだろって言ってたけど、亡くなったその晩から夢に出てきて、それから欠かさず毎晩、話をしてるからちっとも寂しくなんかないんだよ」
父が生きているときから、父と母は毎晩、互いにその日にあったことを報告しあい、生活設計について和やかに話をしていた。そして、いつもひとつの布団で仲良く眠っていた。そんな光景が、子供心に平和で穏やかな記憶として刻まれた。いまだに二人が仲良く話をしている光景を思い出すと幸せな気分になる。
そんな記憶も手伝ってか、母が毎晩夢の中で父と昔のように話をしていると聞くと、それが自然なこととして納得できてしまう。
一時期、父と母が若い時に一緒に写した白黒の写真を机の上に飾っていたことがあった。
1950年代末、いかにもオールデイズの雰囲気の二人が結婚する前のツーショット。
行動的な母は屈託の無い笑顔でカメラをまっすぐ見つめ、その肩に手を掛けた父は、恥ずかしさを誤魔化すように少し目を細めてクールを装っている。
あの頃、自分の結婚がみじめなものになりかかっていた。もう、修復する気力もなくし、空虚な気分だった。以前、母が飾っていた写真をコピーして自分でも一枚持っていた写真を机の上に飾る気になったのは、当たり前のように身近にあった夫婦の姿をそこに置くことで、父と母のような幸せを手に入れる最後の希望としたかったのかもしれない。だけれど、その写真を笑われ、望みは捨てて自分の結婚には終止符を打つことにした。
33年前の今日、父が死んだその日は、日本列島を台風20号が縦断していった。
前夜、危篤の知らせを受けて常磐線の特急に飛び乗ったときは、風雨は強まりつつあったが、列車はなんとかダイヤ通り動いて、無事に父の入院する水戸の病院に辿り着くことができた。
自分も仕事があるのに、毎日朝晩、片道1時間半の道を車を運転して病院に通って看病していた母は、自分が過労のために点滴を打たれていた。
父の付き添いを代わり、そのまま台風の接近で強まる風雨が病室の窓を叩く音を聞きながら夜を過ごしていた。
深夜、突然、父はいつも朝に目を覚ますように意識を取り戻し、ぼくのほうを向いて言った。
「どうした? なぜ、お前がここにいるんだ? 俺は大丈夫だから、東京に戻って勉強していろ」
その言葉もいつもの平然とした調子だった。
だが、その直後、父は苦悶しはじめた。
苦しみながら、必死で何かをもとめるように手を伸ばした。
その手をぼくは握ったが、まだその先に求めるものがあるというように、父は、なおも手を伸ばそうとした。だが、すぐに力尽きてしまった。
父は最期に、母に手を握ってもらいたかったのだと思う。
「昔よりも、今のほうが、お父さんと私は仲がいいくらいだよ」
この前の彼岸に、33回忌のために帰省したときに、母はそう言って笑った。
今年、ぼくは父の享年を越えたが、母の夢に毎晩出てくる父は果たして歳をとっているのだろうか? 今度帰省したときに聞いてみようと思う。
しかし、何故、ぼくの夢にはちょくちょく登場してくれないのだろうか?
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