一ヶ月前に安曇野を訪ねたときは、白いソバの花が満開だった。この連休に再び同じ安曇野を訪ねると、ソバは茶色い実を堅く結び、その背後に雪を頂いた白馬三山が引き締まった秋の空気の向こうにくっきりと姿を見せていた。
311を経験し、その後も異常気象で自然の荒ぶる側面ばかりを見せつけられてきた今年はとくに、着実に季節を刻んでいる信州の自然が、涙を誘うほど愛おしく感じられた。
今回の信州行きは、白馬の観光業に携わる若者たちが自主的に運営する「白馬フェスティバル」にジョイントしてツリーイングの体験会を開くのが目的だったが、フェスティバルが今年初めての開催の上に事前の告知が出来なかったことと、ツリーイングの開場がメイン会場から離れたわかりにくい場所だったため、ほとんどお客さんは来なかった(三日間で、なんと一名!)。
そのおかげで…というのも変だが、穏やかに木漏れ日が踊る林の中で、読書に耽り、活字を追うことに疲れると、樹上に吊るしたハンモックで仰向けになって、コナラとクヌギの葉が重なり合う樹冠をぼんやり眺めていた。
シジュウカラの群れが賑やかに飛び交う中で、背中の縞模様が愛らしいコゲラが一羽、我関せずを決め込んで幹を螺旋階段のように登りながら無心に虫を啄ばんでいる。どこからやってきたのか、一匹のリスが林の端から端まで木の下から天辺まで、林の輪郭を確かめようというのか、それとも自分の縄張りを隈なく設定しようというのか、慌しく動き回り、またどこへともなく消えていく。
時折、樹冠のあたりからどんぐりが振り落とされ、傍らのコテージのガリバリウム屋根に当たって目の覚めるような甲高い音が響く。
こうして穏やかな自然の中で、周囲のあらゆるものと同化した気分を味わっていると、他に何か望むものがあるだろうかと思う。そして、こうした感覚を忘れてしまったことが、人間の世界が居心地悪くなってしまった原因ではないかと。
福島浜通り、阿武隈の山も、今、同じように秋を迎えている。木々はいつも通り紅葉し、ドングリが雨のように降り落ち、鳥も熊も鹿もいつものように冬支度をはじめているだろう。だけど、そこには人の姿はない。一見するといつも通りの穏やかな実りの秋。だけれど、今までの自然とは根本的に変わってしまっている。現実にそこにあるけれど、夢の中の桃源郷のように、立ち入ることはできず、ただ思い出として封印するしかない場所…。
そして、何万年も消えない毒のために封印された場所からは、外に向かってその毒が少しずつ拡散している。
高校の頃、山登りやオートバイツーリングで通った懐かしい土地は、人間が便利さと金を追求したおかげで「魔の土地」にされてしまった。
いつも白馬でお世話になっているペンションミーティアの福島さんの奥さんは、「ここだって柏崎や敦賀が破裂すれば、福島と同じことになってしまう。早く、原子力発電なんて止めなければ」と語気強く言う。
白馬では多くの人がこの土地の自然環境を生かした観光に依存している。だからこそ、核汚染によって土地が死んでしまうことが他人事ではなく、切実な問題として感じられるだろう。
「電気がなければ不便だ。だから、今すぐ核発電をやめるわけにはいかない」と、破局的な大惨事を経験しながら、まだそんなことを言う人たちも大勢いる。
だが、いったい便利な生活がもたらしたものは何だろう? 拝金主義と貧富の格差、成人病の蔓延、希望を失った若者たち、地方産業の崩壊、人間らしい心の喪失…それが電気によって自動化され、低劣で不必要な享楽ばかりが垂れ流されてきた「便利さ」という詭弁がもたらしたものではないのか?
電気は必要最小限でいい。それならば核発電なんてまったくいらないはずだ。地方に住み、地域の仲間たちと支えあい、ときどき木の上に吊ったハンモックでぼんやりして、本を読み、自然との一体感を味わう。そろそろそんな生活に移ろうと思う。
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