いったい何年ぶりか、もう思い出すのが不可能なくらい北アルプスの稜線から遠ざかってしまっていた。学生時代には、自分の家かと思うくらい入り浸り、卒業して職のあてがなければどこかの山小屋に潜り込んで、そのまま居着いてしまおうと思っていたくらいなのに……。
久しぶりに立った3000mクラスの稜線は、昔と同じ風、昔と同じ蒼い空、そして眩しい雪渓で迎えてくれた。
さっきまで気持ちのいい夏空が広がり、遠く尾根続きの後立山の山々を見渡し、戸隠や雨飾といった北信の山々、妙高まで遠望できていたのに、たちまちガスが立ち上ってきて稜線を包み隠し、拭き上げる強風とともに氷雨が打ちつけてくる。でも、それでも心は、「故郷に久しぶりに戻ってきた」と嬉しさで震えている。
今回たどった白馬岳へと続く雷鳥尾根は今回が初めて足を踏み入れた場所だった。
学生時代は、後立山の主に南部、常念から蝶、槍ヶ岳、そして穂高ばかりに通っていた。北アルプスの「表銀座コース」とよばれるエリアが、まだピークハントに価値を置いていた若い自分には輝いていたのだ。
今、いい歳になって、初めて白馬のほうのエリアに取り付いてみると、ここも紛れもなく北アルプスの一角を成し、一度荒れれば牙を剥き出す自然が隠れていることがわかる。
スリリングな岩場があるわけではないけれど、片側が切れ落ちた稜線でホワイトアウトになれば転落の危険があるし、雷に襲われれば逃げ場はない。もちろん、どんな山でも油断は禁物だが、北アルプスの稜線はとくに気を引き締めて進まなければならない。
稜線を駆け抜けていくガスの厚みと方向、時々垣間見えるガスの上の雲の形や雲底の高度など目視しつつ、体に感じる温度や気圧変化などから、猫の目のように変わる天候の先を読んで、レイヤードを調節したり、スピードを加減する。そうしたプラクティスがじつに楽しい。
さらに、今回は雷鳥研究の第一人者である北原正宣氏が、自分の庭であるこのあたりの植生などを事細かに説明してくれるので、より重層的に山行を楽しむことができた。
今回の登山はピークハントや縦走が目的ではなく、白馬岳と対を成す小蓮華山の調査が目的だった。
2006年に山頂部が大規模な崩落を起こし、頂上に安置されていた祠が転落した。また祠と対になっていた鉄剣と風化して首のなくなった大日如来像も危うく崩落に巻き込まれるところだった。頂上は3m沈下し以前とは風景が一変しているという。
この小蓮華岳に安置されている大日如来像は、通称「風切地蔵」と呼ばれ、麓の落倉集落の地蔵、かつての善光寺街道の柄山峠の地蔵と一直線に結ばれている。この方向は冬至の日の出と夏至の日の入にぴったり符合し、昔から結界を形作って、この風切地蔵のラインの南に「魔」が入らないように機能してきたと伝えられている(詳細は拙著『レイラインハンター』に記したので、興味のある人はそちらを参照されたい)。
レイラインハンティングの探査で、柄山峠と落倉の地蔵は調べてあったが、この小蓮華山の大日如来像はまだだった。
そこで、「白馬風切地蔵の謎」最終章として、頂上の状態とともに、小蓮華山山頂のどこに本来地蔵があったのかをGPSを使って探査することになったわけだ。
大日如来像は、天正2年(1574)に麓の小谷村源長寺の開祖である洞光和尚が山頂に安置したとされる。その像は後に失われたため、また同じ場所に別の像を彫って安置された。この大日如来像に由来して、小蓮華山は大日岳とも呼ばれてきた。「小蓮華山」というとイメージとしては小さなピークのように感じられるが、南北に長く尾根を伸ばしたどっしりした山容で、標高は2766m(崩落前は2769m)、新潟県最高峰の立派な山岳だ。
小蓮華の由来は、新潟県側から見ると北の雪を頂いた白馬岳と小蓮華山が白い蓮の花弁のように見えることからだとされ、白馬岳を「大蓮華山」と呼称していたこともあるという。
ぼくたちが小蓮華山の頂上に達したときは、ちょうどガスが取り巻いて展望が効かなかったが、山頂の鉄剣と首無の大日如来像は確認できた。
登山道は、切れ落ちた白馬側のピークから10mあまりも新潟側に寄った低い場所に移され、ピークには近づかないようにロープが渡されている。
足元を見ると、そのロープの内側に稜線に沿って亀裂が入り、その先もいつ崩落してもおかしくないように思える。高さ2mあまりの鉄剣と大日如来像は、そのロープの内側にあって、また崩落があったら失われてしまうだろう。
鉄剣は高さ2mほど、剣の幅は20cmあまり、さらに左右に持ち手のようなものが突き出している。先端から縦に雷撃の痕跡があり、中間地点で雷が抜けた穴がある。鋳鉄製のようで、重さはいったいどれくらいになるのか見当がつかない。
この剣は、昭和元年に地元の青年が九州霧島山頂に祀られている銅剣を真似て松本の業者に作らせてここに安置したものだ。単純に霧島の銅剣に感動して同じものをここに安置しようと思ったのか、それとも他に意図があったのかは定かではない。
首無の大日如来像はコンクリートで岩と接合されているが、その岩は人間一人が動かせる程度の平たいもので、とりあえず危険地帯から避難させたものと思われる。
不思議なのは、2006年にあやうく斜面から落ちそうになり、少し退避させて立てられた鉄剣が正確に柄山峠を向けられていることだ。先にも紹介したが、小蓮華山山頂から柄山峠の方向は冬至の日の出の方向に当たる。たぶん、もともとこの方位(方位角でいうと118°)を意識して鉄剣も首無地蔵も向けられていたものを再安置する際にも、正確に向けたものと思われる。首無地蔵のほうは、風か積雪の影響で、微妙にずれてしまったのだろう。麓の落倉の地蔵も方位角118°で柄山峠を向く。こちらの地蔵も区画整備などで、場所が移されているが、いつもその向く方向は一定に安置されてきたのだろう。
白馬の風切地蔵に関しては、『レイラインハンティング』サイトや『レイラインハンター』で、戸隠修験との関係性などを考察したが、まだまだ深い謎が秘められているようだ。「白馬風切地蔵」の最終章としての登山だったが、またいろいろ調べてから登り直す必要がありそうだ。
次回は、登山の楽しみの要素も膨らませて、八方尾根から唐松岳、白馬三山、そして小蓮華山へと縦走してみようかと思う。
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