昨日は、朝から鎌倉の高台にある隠れ家のような宿にお邪魔して特殊剪定をしていた。
南側が切り立った崖になっていて、その際に生えた木の枝を剪定して崖下の墓地に落ちないように回収する。樹高は5,6mほどだが、足を滑らせれば30m下の墓地まで真っ逆さまなので、セルフビレイしながら剪定するツリーイングの技術が必要になってくる。
はじめ、鬱蒼としていた常緑の樹が剪定すると柔かい木漏れ日を落とすようになり、風通しの良くなった樹間から雪を戴いた富士山と丹沢の山並みが驚くほど間近に見えた。
一階のダイニングから窓越しに南を見ると、手入れの行き届いた庭の向こうにビルの立ち並ぶ盆地を遮蔽する林が続き、剪定したその樹間越しに人工物がうまく目隠しされた富士山が見える。こうした光景を見ると、大正から昭和初期の頃の建築がいかに繊細にランドスケープを意識して設計されているかが良くわかる。
サイモン・シャーマは『風景と記憶』のなかで、風景がただ自然のものとしてそこにあるだけでなく、人が介在して風景に意味を付け加えることで、有機的な心象風景が生み出されると解くが、まさに、ここから見る風景は単なる景色ではなくて、心象に深く刻まれうる「表現」になっている。
剪定の終わった樹の下に腰を下ろし、雪の富士山を眺めながら、お八つに抹茶をいただいていると、間近の梢をリスがすばしっこく渡って行く。
「こういうところでは、チェーンソーとかブロアとか、そうした無粋なものは使いたくないですよね。植木屋の使う鋏や竹箒の音も、ここでは風景ですからね…」
と、相棒のU氏がつぶやく。
そんな言葉を聞いて、今の自分たちがこの風景に自然に溶け込んでいる気がして、とても心地良くなった。
剪定した枝の仕舞いをして辞するときには、富士山に向かって太陽がだいぶ傾いていた。僕たちと入れ代わりに、ある書家が訪れて、富士に沈む西陽を紙に受け、筆を走らせるのだという。
いつか、その書と目見えることがあったら、きっと今日の風景の心地良さと同じものをそこに感じて、懐かしく感じることだろう。
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