とても愛着があり、一生持ち続けて、時折ページを捲ろうと思っているのに、気がつくとどこかに消えてしまっている本がある。
ブルース・チャトウィン『ソングライン』もそんな本の一冊だった。
心が詰まってしまった夜に、『ソングライン』を本棚から取って、当てずっぽうに開いたページの一節を読めば、気持ちがほぐれて言葉に出来ない蟠りが流れ去ってしまうはずなのに……と、残念に思う。
初版を手にした「めるくまーる」刊行のものは絶版となってしまった。アボリジナルのトーテムの一つであるトカゲが二匹、陰陽のマークのように互い違いに絡みついたアボルジナルアートの装丁が、なんともプリミティヴな雰囲気を醸し出していた。訳者はオルタナティブな内容の作品を得意とする芹沢真理子。ときどき、アマゾンに古書が出るが、どれもプレミアがついて高価だし、できれば手垢のついていない新品がもう一度欲しいと思っていた。
池澤夏樹が個人編集の「世界文学全集」を河出書房新社から刊行しはじめ、チャトウィンの『パタゴニア』が収録された一冊が出たときには、この全集に『ソングライン』も組み込まれるのではないかと期待し、すぐに同じ作家の作品は組み込まないだろうと、逆に落胆した。
最近、またふと『ソングライン』が手元にあったらいいのにと思うことがあって、アマゾンを開いてみると、昨年、チャトウィン没後20周年を記念して、英治出版から刊行されていることを知った。
さっそくそれを取り寄せた。
訳者は変わり、装丁はトカゲのトーテムではなく、アボルジナルの壁画が刻まれた洞窟の写真になっていたが、大部のこの本を開けば、懐かしいチャトウィンがそこに息づいていた。
太古、アボリジナルたちは、ドリームタイムを生きていた。そこでは、人間も動物も、様々なものに宿る精霊も、そして土地に息づくゲニウス・ロキ=地霊も全ては分け隔てなく、ともに生かしあっていた。
アボリジナルたちは旅をするとき、ゲニウス・ロキが奏でる音楽に合わせて歌を歌い、その歌に合わせて踊る精霊に導かれて旅をしていた。固有のルートには固有の歌があり、それは広大な国土を網目のように覆っていた。その国土を覆う歌の網がソングラインと呼ばれた。
土地に刻まれた様々な歴史、人の思い、そして大地そのものと精霊たちの囁き…それを世界中に追い求めていたチャトウィン。
彼がソングラインに惹かれて旅をした気持ちは良くわかる。
『ソングライン』は原書が1987年に発行された。チャトウィンは、それから2年後に若くしてこの世を去る。
彼の命を奪ったのは、当初は旅の途中、中国の奥地で罹患した風土病だとされた。しかし、本当は、HIVウィルスが彼の命を奪ったのだった。
チャトウィンがまだ存命だったら、やはり、『ソングライン』や『パタゴニア』に記したような旅を続けていただろう。
「アボリジニは大地をそっと歩く人たちである。大地から受け取るものが少なければ少ないほど、返すものも少なくてすむ…」
序盤に、そんな言葉が出でくる。
チャトウィンも、世界中をそっと歩いた人だった。だけれど、彼は受け取ったものより遥かにたくさんのものを大地に返した。
土地の歌が歌われなくなったらその土地はしんでしまうとアボリジナルは考える。チャトウィンは、世界中で歌われなくなった土地を巡り、誰もがその土地の歌を思い出せるように、歌を記した。
チャトウィンは、モールスキンを愛用したことでも知らているが、『ソングライン』には、彼がパリの文具店でありったけを買い占めた最後の手づくり時代のモールスキンに記したメモが、逸話を紡ぐ糸のように挿入されている。
辺境の旅の一夜、薄暗い灯りの下で手帳にペンを走らせる彼の姿が思い浮かぶ。
あゝ、また自分も辺境を旅したくなってきてしまった。
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