若狭から瑞々しい青梅が届いた。
5kg入りの箱を開くと、プラムのような爽やかな香りが部屋中に広がる。
去年も、同じ若狭三方の梅を戴いて、梅シロップ、梅干、梅酒、梅サワーを仕込んで、一年間堪能した(http://obtweb.typepad.jp/obt/2009/07/post-a2fc.html)。
ぷっくりとはち切れそうに膨らんだ青梅の瑞々しさを象徴するような今の季節。それを「梅雨」と名付けた昔の人達の身の回りの自然を観察する視線と、梅という木の実に季節を象徴するそのセンスには感服させられる。
降り注ぐ雨が大地にたっぷり吸い込まれ、それが、暑い夏に絞り出されて、作物を育てる。そして、やがて季節は乾いた実りの秋を迎える。
たっぷりと水分を蓄えた梅の実は、塩や酒に漬けられて、水とともに滋養に富んだエキスを染み出させ、秋を迎える頃には水分を出し切って、新しい味覚として口にされるようになる。
青梅は、そのままでは毒だが、様々に加工されることで、嬉しい恵みになる。梅雨も、ときに天災をもたらすが、梅雨を経ることで作物は秋に実ることができる。
現代人が季節感を失い、自然の営みに鈍感になってしまったのは、こうしたさりげない季節の恵みに接し、手間を掛けて味わうことをしなくなってしまったことも大きいだろう。
去年の梅の話でも書いたが、幼い頃に、祖母と一緒に梅の実をもいで梅干や梅酒を作ったり、小さな畑で、様々な季節の野菜を作ったり、ニワトリを飼って卵を取ったりした経験は、当時は面倒に感じたが、今ではそんな経験をさせてくれた祖母に心から感謝している。
また、堅実な公務員だった父は、唯一の趣味である植木で、いつも庭を埋め尽くし、いつも季節の花が見事だった。せっかくの休みの日に、ろくに口も聞かず、ただ黙々と植木に向かう父の姿が、そのときはなんだかつまらなく感じたが、今になってみると、父が端正こめた植木や庭木の花が次々に咲き乱れる庭はまさに季節そのもので、あの光景を幼い時にずっと見ながら暮らせたことで、季節を実感できるイメージが自分の中に自然に醸成されたことに感謝している。
そういえば、いつだったか、幼い頃に父に連れられて、広大な敷地に盆栽が並んだ市場のようなところへ連れていかれたことがあった。
長いこと、父の植木仲間が運転する車に揺られて、どこに向かうのかと期待したらそんなところで、父とその友人は、目を輝かせ食い入るように一鉢一鉢吟味している横で、ずっと石を蹴って時間を潰していた。昭和4年の生まれで、終戦を少年兵として迎えた父は、「家庭サービス」などという言葉とは無縁の人生を歩んだ。そんな父が、不器用ながら幼いぼくに一緒に遠出することで、サービスしてくれようとしたのだろう。
今、埼玉県の大宮近郊に住み、時々、「盆栽町」という交差点を通る度に、父がここへ連れてきてくれたあのときを思い出す。
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