今日6月30日は、1年の折り返し地点。大国主神や素戔嗚神を祀る神社を中心に、半年の穢れを祓う『夏越の祓』が行われた。
ぼくも近所にある大宮氷川神社に出掛けてきた。
参道を進んで行くと、山門の手前に真ん中に御幣を垂らした茅の輪がしつらえられている。平日の昼間なのに、けっこうたくさん参拝者がいて、この茅の輪を八の字を描くように潜りながら、上から垂れた御幣に軽く触れていく。
山門を潜り、清めの手水を通り過ぎると、人形の配布場が設けられている。
白い紙を人の形に切った人形は、そこに自分の名前と年齢を書き、息を三回吹きかけ、さらに指で頭から縦に三回なぞる。これで、自分の穢れが人形に移り、これを流してもらうことで、穢れを祓うことができるとされる。
もともと、ひな祭りは、この人形が原型だといわれ、陰陽師が使うとされた式神も、同根のものとされる。
ただ、白い紙を人の形に切り出しただけだが、人に自分に似たものを自然界の中に探す習性があるせいなのか、そこに人と同じような意識が宿っているように感じさせる。
そこに自分の手で自分の名前と年齢を書き込めば、それは自分の化身のように感じられて当たり前だ。
古来、魔術は、こうした人間の『類感特性』を利用することで、心理的効果を発揮してきた。年中行事の多くは、そんな魔術的思考から発している。
茅の輪を潜るのは、蘇民将来の伝説に由来する。
この伝説は諸説あるが、要約すれば……乞食に身をやつした素戔嗚がある村を訪れ、そこで一夜の宿を乞うたが、どこにも相手にされず、ようやく蘇民将来という貧しい農民が食事と寝床を饗してくれた。翌日、素戔嗚は正体を現し、自らを歓待してくれた蘇民将来とその子孫には繁栄を約束し、素戔嗚を邪険にした他の村人たちは祟り殺された。蘇民将来には、彼と彼の子孫であることを証明するのに、茅の輪を門前に掲げろと言い残した。
茅の輪を潜り、茅の輪のお守りを門前に掲げることで、自分は蘇民将来の子孫であるとアピールして、神の祟りを逸らすというわけだ。
自分を邪険にした人間を即座に祟り殺すというのも乱暴な話だが、それを出自を偽って逸らすというのも、かなり姑息だ。神話には、日本だけに限らず、こうしたユーモラスともいえる逸話が多い。
大宮氷川神社は、まさに素戔嗚を祭神とする神社で、その目の前で、「蘇民将来の子孫ですよ」と、平然と噓をついているのだから痛快だ。
若い頃は、年中行事なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、いい年になり、由来に興味を持つようになると、そこに秘められた、昔の人たちの敬虔さとしたたかさに共感がわき、彼らの感覚を追体験するために、積極的に参加するようになってきた。
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