1990年代の半ばから終盤にかけて、SEGAでゲームの企画に携わっていた。
アウトドアやオフロードモータースポーツのライターからゲーム企画へ転身したというと不思議に思われることが多いが、自分としては、違和感がないというか、ごく自然な成りゆきだった。
元々、ぼくの家系は理科系が多く、叔父や従兄弟は土木工学や機械工学のエンジニアとなっている。文系に進んで、物書きになったぼくのほうが珍しい存在で、そんな自分も、科学や工学をテーマに記事を書くことも多かった。
SEGAとの付き合いは、今から25年ほど前に、取材でプログラマーの鈴木裕さんにインタビューしたのがきっかけだった。その後彼の誘いで、格闘ゲームの名作『バーチャファイター2』の中国取材に二人で出掛けることになる。
それからしばらく間を置き、再び彼に誘われて、『シェンムー』という大作に関わることになった。ちょうどこの時、コンピュータサイエンスにまつわるフィクションを構想していて、その最前線ともいえる現場に浸れる幸運を生かさぬ手はないと、二つ返事でプロジェクト参加を決めた。そして、気がつけば、このプロジェクトに全身全霊をかけることになっていた。
ゲーム作りの現場は、呆れるぐらい楽しかった。
それまでのライター仕事といえば、編集者とのやりとりはあるけれど、それは事務的なもので、基本的に一人孤独に原稿用紙を文字で埋めるものだった。
ゲームの現場では、シナリオチームでプロットを考え、手分けしてシナリオ化する。それを2Dチームに渡すと、詳細な絵コンテと同時にデザイン案が出される、今度はそれが3Dチームに渡り、ゲーム世界のアーキテクチャとキャラクタがデザインされる。そして、最終的にシナリオに沿ったプログラムが組まれて、動きのあるゲームとなる。
もちろん、こうしたプロセスはすんなりといくわけではなく、レンダリングの問題や、プログラム的に困難なことも多々あって、擦り合わせやリテイクが果てしなく必要になる。
だが、そんな困難がいくら積み重なっても、自分たちの考えたプロットがだんだん形になり、リアルなキャラクタとして動きはじめた時の「世界を創造した」という感動は、それまで味ったことのないものだった。
結局、このプロジェクトは3年あまり続き、その間、ほとんど休みなく、睡眠時間も削って、没頭していた。
このプロジェクトには延べ200人あまりのスタッフが関わった。その200人がそれぞれのパートでベストを尽くし、ときには激しくぶつかりあい、ときにはパートを超えて知恵を出し合って、ひたすら納得のいく作品を目指した。
昨日の夜、あの時のメンバーが10年ぶりに集まった。200人のうち、じつに91人が懐かしい蒲田の街で酒を汲み交わした。みんな懐かしい顔。ある時期、濃密な時間を一緒に過した仲間たち。社会人になってしまうと、なかなか腹を割って付き合える友人はできないものだが、この仲間たちとは、長いブランクがあっても、またすぐに心を許し合える。
2時間あまりの短い邂逅だったが、互いの今の仕事など紹介し合い、同じような分野の企画を温めていることがわかったりして、また新たな関係が生まれそうだ。
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