『宗教』というものに、ほとんどの人は、何かを信じることというイメージがあるだろう。宗教=信仰といった構図は、 確かにそのコアの部分を形成していることは間違いない。だけれど、宗教を取り巻く儀礼や様々な様式、さらには「伝え」といったものは、 ある特定の人に特定の事柄を伝えようとする暗号であるような気が前からしている。
『哲学』は、物事の背後にある事象をなんとか解き明かそうとして、述語は難しいけれど、万人に対して開かれている。述語を覚え、 テクストを読み解いていけば、誰でも同じ「解」へと行き着くし、後学の者誰に対しても解へと向かう道がつけられている。
ところが、宗教の場合は、一方に盲目的な「信者」がいて、一方には特定の者にだけ「解」を伝えるための暗号化を操る者たちがいる…… そんな気がしてならない。
といっても、よくあるフリーメーソンだとかテンプル騎士団だとか薔薇十字だとか、 東洋の秘密結社だとかといった陰謀史観に登場するようなものではなくて、もっと、 その宗教が伝えようとするものがとてもデリケートでフラジャイルなものであるがために、ある段階に達したものだけに伝授されていくわざと 「難解化」された記号が秘められている……そんなニュアンスのものだ。
たとえば、オウムはチベット仏教のある側面だけを生齧りして、それに勝手な解釈をつけて暴走していったし、他のカルトも同じように、 実際はとてつもなく深くデリケートでフラジャイルな宗教のある部分だけを都合よく利用して、現世利益を説いて、私利私欲を満たしていく。
それは、何もカルトだけに限ったことではなく、宗派仏教にも当てはまることが多々ある。例えば、 空海が伝えた理趣教を押し頂いてセックス教団と化した真言立川流があるし、やはり空海が唱えた「即身成仏」を「自ら仏になる」 と安直に解釈して、自殺した僧がたくさんいる上に、その自殺僧のミイラを拝む一種の「悪魔崇拝」まで生み出している。
空海は、そういった「トラップ」をわざと仕掛けて、浅墓な後学たちを篩いにかけようとした節があるが、それはともかく、『宗教』 が伝えようとしていることは、部分だけを取り出してまったく逆の解釈にすりかえてしまうことも可能で、だかこそ、 そういったトラップをかわして全体を掴み取るためには、恐ろしいほどの精神的労力と、資質を必要とする。
そんなことを考えたのは、先日、二度目の「お水送り」に参加して、あらためて、 この儀式に秘められた不思議なメッセージに魅せられたからだ。
お水送りの儀式には、大陸伝来の不老不死思想が入り、火を巡るゾロアスター教が入り、それに修験や神道が折り重なっている。そして、 この儀式の伝える『宗教』の背後には、良弁、実忠、空海へと連なる混交宗教=密教の創始者たちの姿が重なってくる。
若狭に産する水銀を含んだ不老不死の妙薬の原料=香水を精製し、それをとある沢の淵から注ぎ込むことによって、 奈良東大寺の二月堂下の若狭井まで、その香水が達する。奈良ではこの「お水送り」の十日後に若狭井から水が汲み上げられ、「お水取り」 の儀式が行われる。
若狭から注ぎ込まれた水が奈良まで達することは、現実にはありえないが、若狭と奈良とで、恐ろしく整備された儀式をシンクロさせ、 さらにそれを補強する神話を組み合わせて、儀式のコアを形成する宗教人たちは、まさに宗教的陶酔の元で、一連のイメージを共通記憶・ 観念として純化し、記憶する。
人の意識を明確にし、さらにそれを非常に堅固な共同幻想とすること……それは目に見えないが、とても大きな力となって、 宇宙に照応をもたらすのではないか。
そうした原理は、「哲学的」な言葉では伝えようがなく、儀式やアートとするしかない。
若狭から戻って、白洲正子の『十一面観音巡礼』を紐解いてみると、そこには、お水送り儀式に参加した際の克明なレポートがあった。 そして、さすがに慧眼なことに、不老不死伝説と丹=水銀との関係が、この儀式の背後に潜んでいること、さらには、同じ「火祭り」の系統が、 若狭を北端として、鞍馬、奈良、そして熊野に存在しているその関係性を示唆している。
お水送りでもお水取りでも、香水をいただく前に全てのものを清めるために、大きなかがり火が焚かれる。これを「達陀(だったん)」 というが、この儀式を創始した実忠がインド人僧であり一説にはペルシャ人であったとも伝えられ、ゾロアスター教の拝火儀式を連想させる。
そんな中で、日本へのゾロアスター教の伝来とその痕跡について推理した著作が松本清張にあることを知って読んでみた。その著作 『火の路』では、奈良の飛鳥に散らばる酒船石や益田岩船、亀石、須弥山石といった謎の巨石をゾロアスター教の拝火儀式にダブらせ、 これらに関係したとされる斉明女帝の「異教」性をゾロアスター教と結び付けていた。
宗教を糸口に、日本という国を見直してみると、そこには無数の興味深い謎が散りばめられていて、それを訪ね歩き、 推理していくことを思うだけでワクワクしてくる。
一つはっきり言えるのは、宗教には「救い」はない。そこにあるのは、求めるべき「謎」だ。
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