NHKのETV8で、多田富雄さんが白洲正子に自作の能を捧げるドキュメンタリーが流れていた。
能を通じて、二人に親交があったことは知っていたが、白州正子が亡くなる寸前まで、深い付き合いがあり、 没後10周年にレクイエムとしての能を贈るほどの心の通い合いがあったとは知らなかった。
白洲正子は、幼い頃から鍛え上げられた審美眼と男勝りの行動力とで、日本の美術界や思想界、読書会に大きな功績を残した人だが、 そんな白洲正子に、多田富雄は深い寂寥感を見た。そして、その白州正子が持っていた寂寥感を二人のもっとも根源的な交流言語であった『能』 に託して、没後10年の白洲正子の魂を能舞台へと影向させ、「あなたには、深い深い寂寥感がありましたね。それをぼくは、今になって、 よく理解できるようになりました」と、伝える。
世界屈指の免疫学者でありながら、科学では表現しきれない此岸と彼岸の間に横たわる「あわい」のようなものを『能』 という表現形式で語る多田富雄。
自身が、臨死を経験したことで、より「あわい」の存在を意識し、先に逝った白洲正子に接近し、 彼女の魂を呼び寄せるわざを身につけたようにも見えた。
脳梗塞の後遺症で右半身が麻痺し、発話にも障害を負った多田さんは、左手だけで、カタ……カタ……カタ……とキーボードを押して、 言葉を紡いでいく。そのキーボードの音に、多田さんが白洲正子の晩年に感じたのと同じ「寂寥感」が漂っているように感じたのは、 ぼくだけだろうか。
寂寥感……といっても、それはただの「さびしさ」ではない。骨身に染みるような根源的なさびしさでありながら、でも、どこか透明で、 それを自ら認めて、正面から向き合うことで、何か違ったものへと止揚される、そんなさびしさ。
多田さんが能舞台に作り出した世界に、白洲正子は、かそけき笑みを浮かべて寄り添う。 それを確かに感じ取った多田さんも同じように微笑む。
どうしてか、その微笑みに、涙がとまらなくなった。
>hikuro3さん
コメントありがとうございます。
私は、白洲さんは著作でしか知りませんが、多田さんは幾度か間近で講演をお聞きして、とても親近感を覚えました。
代表作ですが、『免疫の意味論』、『生命の意味論』がお薦めです。
投稿情報: uchida | 2010/08/09 12:44
寂寥感と白州正子はぴったりですね。多田富雄さんについてはよく知りませんが、一度、著書を探してみます。
投稿情報: hikuro3 | 2010/08/07 10:05
>与作さん
コメントありがとうございます。
だいぶ昔、多田さんが小さなセミナーにゲスト出演されたとき、間近でお話を聞いて、その内容に感銘したのと同時に、言葉のイントネーションが懐かしい自分の故郷のもので、とても親しみを感じました。
同時に、話のされかたが、一つ一つ適切な言葉を選んで、センテンスを区切るのが、自分の話し方と似ていて、そこにもとても好感を持ちました。
多田さんが、そんな親しみのある言葉を失われてしまったのは寂しいですが、その後、思索をさらに深めて、表現活動をなさっている姿には勇気づけられました。
数日の臨死体験から帰還して、言葉と運動能力を失っても、能の一幕を心の中で諳んじて、「あぁ、考える能力は失っていない」と安堵したと書かれていましたが、そんな真摯な思索者としての多田富雄が健在だったことは、その世にとって幸せなことだったと思いますね。
投稿情報: uchida | 2009/03/15 13:57
ひょっこりお邪魔します。
寂寥感ですか、
愚生も考えてみましたが、貴兄の域に及ばず、でした。
五感のうち何かを損ない、限られた時間の中で逆に何かを得た多田富雄さんを観た様な気がします。
悠久という単語が似合っているのかな、なんて事がイメージされ、爽快感が数日残りました。
投稿情報: 与作 | 2009/03/08 19:01