つい先日、山の紅葉からだいぶ遅れて紅葉を迎えたアパートの小さな庭の生垣が、この数日の冷え込みですっかり葉を落とした。 昨日の朝と今朝は、近所の畑から転換した宅地造成地の地面が、立派な霜柱に覆われていた。
ふと、子供のときに霜柱を踏んづけて遊んだ冬の朝を思い出し、ザクザクと片端から踏んづけてみたくなった。
しかし、傍らを黙々と出勤を急ぐサラリーマンがひっきりなしに通り過ぎる中で、 一人童心にかえって遊んでいる中年男の姿の異常さを思い浮かべて、それは止めた。……どうせ、 ギリギリ会社に間に合う電車に飛び乗れるかどうかで頭が一杯で、傍らで無心に霜柱を踏む変人の姿など目に入らないだろうし、そもそも、 彼らは、いつもの通勤路の風景が霜柱の絨毯で彩られていることにも気づいていない。
ほんの少しだけ、一瞬の微笑み分くらい童心を開放してやって、片足を伸ばして霜柱を踏んでみると、 それはほんとうに懐かしい感触だった。
世界は今同時不況に向かっているのだと、やたらに喧しい。いつぞやは土地のバブルに踊り、 つい先日まではマネーゲームの幻想経済を煽っていたマスコミたちは、一転して終末論を振りかざす新興宗教教祖のように、 カタストロフィをあらゆるメディアを使ってがなりたてている。
しかし、身近な風景を眺めてみると、生垣は冬を迎えて葉を落とし、朝の冷え込みに霜柱が土を持ち上げている。 それは些細な営みだけれど、自然が営々と続けてきた安定したリズムだ。人が人を煽り立てる幻想の社会に背を向けて、 今踏みしめている足元を見れば、そこには不動の不変の自然がある。
今こそ、こうした身近な自然の営みの中に、ぼくたちは何かを見つけるべきなのかもしれない。
小さな庭の生垣に近づいてよく見ると、落ちた葉の影に、春にむかって準備を始めた小さな芽がいくつもあった。
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