午後、世田谷にある喜多見不動を訪ねた。
小田急線が傍らを通る高台にあるこじんまりしたお堂は、富士山を正面に見て、冬至の入り日は、その富士山に沈む格好となる。そして、 まさにその入り日にタイミングを合わせて、「星祭り」が行われる。堂内ではリズミカルな太鼓の音に合わせて読経が響き、護摩が焚かれる。 そして、参詣に訪れた人には境内で唐茄子汁粉が接待される。
もう幾年前になるだろうか、聖地を結ぶレイラインの探索を始めて、 茨城県の南部にある鹿島神宮が関東ではレイラインの大きなハブのような役目を果たしていることに気づいた。
鹿島神宮からは、他の聖地やランドマークを結ぶラインが数多くあるが、その中で、 鹿島神宮から見て冬至の入り日が富士山に当たることをみつけ、そのラインを辿るうちに、 小田急線の下北沢から狛江までの10kmあまりの直線が、ぴったりとこのラインに乗っているのを発見した。
そして、数年前の冬至の日に、GPSを持って実地に調べているうちに、この喜多見不動の星祭りに出くわしたのだった。
この丘の上にあるお堂は慶元寺の境外仏堂と言われているが、実際には、明治のはじめに多摩川の大洪水があって、 その際に流れ着いた不動明王像を安置したのが始まりで、当時の村の有志が建立した独立した寺だった。
鹿島神宮と富士山を結ぶ「冬至ライン」には、古い街道が沿っていたり、 江戸城や明治神宮といった目立つランドマークの他(DoCoMoの本社ビルもまさにこのライン上に位置している)、神社仏閣が数多い。 さらに小田急線は、その直線区間をわざとこのラインに乗せたと推測できるが、そんなことを考え合わせると、このお堂を建立した人たちは、 そのことを知っていて、まさに冬至ラインの上で、富士山を正面に拝むようにお堂を配したという気がする。
星祭りは、密教のほうでは妙見信仰に由来する一種の厄除けだが、じつは、冬至の日に太陽の再生を妙見に祈るというのが、 本来の形だったのではないだろうか。
妙見=北極星は、北の空にあってその位置は不動だ。それに対して、太陽は位置と日照時間を変化させてゆき、 冬至にはもっとも日照が短くなる。多くの太陽信仰は、冬至に太陽は死に、翌日生き返ってくるとされる。クリスマスも元は太陽再生を願う 「冬至祭」であったという。星祭りは、太陽の再生を不動の妙見に祈るという意味ではないのか? お堂の中で北を向き=妙見様を向き、 一心不乱に経を上げながら護摩を焚く僧侶とそれを見守る信者の姿を見ていると、そんな思いがますます強くなってくる。
ちなみに、祭政一致の古代世界では、冬至祭を主宰し太陽を再生させることが祭祀王の重要な役割の一つだった。その意味では、 23日が誕生日である今の天皇は、祭祀王としての資格にぴったり当てはまるともいえる。
お堂の横、切り立った土手の下には、細い隧道があって、その奧に不動明王が安置されている。 護摩を焚く煙が微かに漂うその隧道に入っていくと、真っ直ぐに射し込んだ冬至の入り日が奧に達して、不動明王の姿をくっきりと映し出した。
思わず、その場に跪き、両手を合わせる。
普段は闇の中にあって静かに眠る不動明王=妙見が、太陽の最期の光によって再生し、その力を死にゆく太陽に返す瞬間……それは、 人が考え出したギミックではあるけれど、ただ自分の無病息災を祈るといった卑小な了見ではなく、もっと大きな宇宙の営みを意識して、 それに自分たち人間も少しでも貢献しようという「無私」の精神が、自然や宇宙に対する本心からの感謝が感じられた。
昔の人たちは、自分たちも大きな自然や宇宙を構成する「部分」であることを強く意識していた。自分たちが信じれば、 その小さな心の動きが波紋となって宇宙全体へと波及していくという「照応=コレスポンデンス」の宇宙観を持っていた。
洞窟の奧に浮かび上がった不動明王に両手を合わせながら、ぼくも自然に、明日の太陽の再生を心から祈っていた。
**お堂から溢れた人も、護摩供養に合わせて、ずっと表で手を合わせていた**
**冬至の夕陽がお堂横の隧道の奧に導かれ、 最奥に安置された不動明王を浮かび上がらせる**
**喜多見不動横の通称「富士見橋」。橋の下を小田急線が通り、真っ直ぐ富士山のほうへ向かっている。 残念ながら雲が掛かって、富士山自体は拝めなかった**
>ヤマさん
コメントありがとうございます。
昔の人たちは、こうした一年の節目の日に、人に宇宙との繋がりを実感させる仕掛けをたくさんのこしているんですよね。
身近にこうしたことがたくさんあるのに、それを見逃して、切れ目なく追い立てられるように日々を過ごすのはもったいないですね。
投稿情報: uchida | 2008/12/23 00:56
はじめてコメントをします。
「星祭り」の記事を大変興味深く、拝読しました。
古人は、土地や空や天体と深く関わりたかった。
まるで、一体であるかのように。
自分たちも大きな自然や宇宙を構成する「部分」・・・
自分があって宇宙がある、宇宙があって自分がある。
深くて大きな意思です。
貴重なお話ありがとうございました。
投稿情報: ヤマ | 2008/12/22 16:48