インドのバラナシから戻ったばかりの『旅学』編集長、池田伸さんと先日会って話をした。
「宿のすぐ横が焼き場でね、ひっきりなしに、そこで火葬されてるんですよ。骨が火に炙られてはぜる音がはっきり聞こえる。 そんな音を聴いていると、あぁ、死というのは遠くにあるんじゃなくて、今ここにあるものなんだな。 人はいつも死を背中に背負って生きているんだなって、理屈じゃなくてね、感覚としてわかるんですよね」。
"Memento mori"それは、ぼくが物事をまともに考えるようになった最初に精神にすり込まれたテーゼかもしれない。
ふとしたとき、ぼくは池田さんが焚き火の中ではぜる骨の音を思い出すように、父がこの世に取りすがるように手を伸ばしながら、 向こうへと行ってしまったあの瞬間を思い出す。
大学の何年生の時だったか、藤原新也の『メメントモリ』が出版された。それを手にしたとき、 ガンジスの畔で無造作に積み上げられた薪の中で燃えていく亡骸を見て、本来、人は身近な人が亡くなり灰となっていく場面に立ち会うことで、 生と死が隣り合わせなんだとわからされるものなんだ、自分だけが特殊なのではないんだと、何か重荷を下ろした気がした。
しかし、その後、何人も去っていく人たちを見送っているうちに、いつしか心配性に囚われるようになってしまった。
自己のこととしての"Memento mori"はすんなり受け入れられる。いつ自分が向こう側へ行こうがかまわない。しかし、 あの18歳の秋に経験した、あんなことには、二度と立ち会いたくないと思ってしまうのだ。
コメント