この夏二度目のツーリング取材に出ようとしているのだが、 オホーツク高気圧と太平洋高気圧のせめぎあいが作り出している長雨のせいで動き出せずにいる。
昼間は妙にひんやりとして、夜になると秋虫の声が響き、つい先日のあの酷暑はどこへいったやらといった異様な陽気…… 四国だけは太平洋高気圧の舌先がかかって、一人酷暑にあり続けているというが。もう今更「異常気象」とうたうほど「異常」 が珍しくもなくなってしまって、言葉も見つからない。
そんなわけで、たまったデスクワークを片付けながら、松岡正剛の『空海の夢』など読み直している。
今年のツーリング取材のテーマの一つは「名水」なのだが、各地を巡っていて、 名水と呼ばれるところには不思議に空海=弘法大師の伝説が残されているところが多いことに気づいていた……まあ、「気づいた」 というのはもう十数年前で、それから、空海にまつわる伝説は、自分が追い続けているテーマにまつわる特別な土地を示すランドマークとして、 大いに活用させてもらっているわけだが……。
初めて『空海の夢』を読んだのは、初版本が出た直後だから、20年以上前になるだろうか。それから幾度か読み直しているのだが、 また空海について調べたいことが出てきて、まずは司馬遼太郎の『空海の風景』を読み直して、空海という人のアウトラインを引きなおし、 空海の精神を辿るために『空海の夢』に向かうことにした。
ところが、何度も読んでいるはずの初版本が見つからない。そこで、Amazonで注文し、改訂版の新しいものを取り寄せた。
松岡正剛は、この改訂版でよりいっそう、空海の『ニューウェーブ性』を浮き彫りにしているように思える……といっても、 初版本の内容をつぶさに覚えているわけではないので、じつは、 単にぼくが今までの読書では松岡が伝えようとしていた空海のニューウェーブ性を理解できずにいただけなのかもしれないが。
まあ初版と改訂版の内容の違いはともかく、あらためて空海にまつわる書物を読み直してみて感じるのは、空海というある面山師であり、 ある面緻密な戦略家であり、そして、仏教から神道、修験、道教、儒教、 あらゆる東洋思想をクロスオーバーして独特な世界を築いていこうとする途方もないプロデューサーであるということだ。
そして、この人が今生きていたらどんな人だろうかと、つらつらと想いを巡らせていて、ふと思ったのが、 北京オリンピックのセレモニーのプロデューサー張芸謀だった。
中華文明の歴史を現代的な演出で壮大に描き、その手段は大胆で、様々な批判もまったく意に介さない……なんとなく、今、 ぼくの中で形をとりつつある空海の人物像が、重なって見えたのだ。
コメント