先月、久しぶりに会って互いに「浪人」になった身の上話などで盛り上がったK氏のblogを読んでいたら、 飛び降り自殺に出くわした話が書かれていた。
数日前の深夜に自宅の書斎で原稿を書いていると表で鈍く大きな音がして、出てみると、 迎にあるウィークリーマンションの生け垣に30代前半くらいの男性が落ちて亡くなっていたのだという。
K氏の実家はお寺で、週末に実家に戻られた際に、自分が出くわした仏のために経を唱えたという。
「確かに、何だかイヤな気持ちになることもあります。地下鉄の駅で電車がホーム入ってくるのを見てなんだか、フラー・・・
という気持ちもわかります」
でも、生きていれば良いことあるんじゃないかと思います。
と、彼は書いていた。
自分で起業して、その会社を大きくして、しかし、様々な思惑が錯綜する中で、 彼は我が子のような自分の会社を他の会社に譲らざるをえなくなった。
彼と会ったのは、ぼくもちょうど全力を注いでいたプロジェクトが理不尽な理由から、唐突に全て中止されてしまった直後で、 彼の話を聞くよりも自分の鬱憤を彼に受け止めてもらうような状態だったが、一個のフリーランサーとして、 自分の心配だけしていればいいぼくとは違って、彼は、残していく従業員のことや取引先とのことなど、 解決しなければならない問題が遙かに多かったはずだ。
精神的なダメージは、ぼくなどより遙かに大きかったはずなのに、熱心に話を聞いてくれた彼は、 やはり経営者の度量を持っているのだろう。だから、見ず知らずの仏に、わざわざ経を唱えるといったことが自然にできるのだとも思う。
「…地下鉄の駅で電車がホーム入ってくるのを見てなんだか、フラー・・・という気持ちもわかります…」
自分の人生に責任を持って生きている人なら、誰だって辛いことはある。ぼくも、 そんな気持ちにとらわれそうになったことが何度もある。でも、何があっても、そんな誘惑には駆られないないだろう。 それはK氏も同じだと思う。だから、「でも、生きていれば良いことあるんじゃないかと思います。」という言葉が続くのだろう。
K氏とは、某ゲーム会社の関係で一緒に仕事をして、ほんの一瞬だが、ともにその会社に籍を置いたことがあった。その会社では、 幾人も若い優秀な人たちが仕事のストレスのためか、自殺した。K氏とぼくと共通の友人もその中にはいる。
身近な人間が自死という行為に走ったことのやるせなさを知っているから、自分が同じ道を歩もうとは思わないのかもしれない。
K氏は、亡き人の弔いに経を唱えたが、ぼくは、そんなときや自分の心が辛くなったときには、神道の祝詞を唱える。といっても、 諳んじているわけではないので、祝詞集を出して、その文言を静かにゆったりと唱えるのだが。
なかでも、大祓詞が多いのだが、そこには、犯してしまった罪や被ってしまった穢れを八百万の神たちがバケツリレーするように、 遠い彼方へ運び去って、それを広い海原に拡散させ、さらに大宇宙へと吹き払うことで、消滅してしまうというプロセスを具体的に謳っている。
自分で犯した間違いは、当然、徹底的に反省しなければならないが、自分の力ではどうしようもない理不尽な目に遭ったときは、 それを忘れ捨ててしまうために、大祓詞はいい処方箋だ。
それに縋ってしまっては意味がないが、いざというときの心の拠り所として、K氏の仏前での経やぼくの祝詞のようなものがあれば、 年間3万人を越えたという自殺者の何割かは、向こうへ踏み出さずに済むのではないだろうか……。
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