きまじめで、人当たりが良く、とても人のことを気にかける友人がいる。高校から大学までスポーツで慣らし、いかにもタフに見えるが、 とてもナイーブで気の優しい人間だ。
彼は、小さいながらも組織を率い、斜陽が叫ばれる業界の中にあって、運動部時代からのバイタリティーとアイデアを武器に、 その業界の中で、独特の個性を築いて、徐々に成功をおさめている。
そんな彼が、「死にたい」と漏らしたことがあった。
その口調は、冗談などではまったくなく、側にいてやらなくては危ないと感じさせた。
だが、男であるぼくが彼の側にいてどんなに慰めても意味のないこともわかっていた。ぼくにできたのは、 「お願いだから死なないでくれ」と声をかけることだけだった。
幸い、彼は、なんとか自分一人で苦しみを乗り越えて、死を選ぶことはせずに立ち直った。
自殺については、ぼくには、苦い思い出がある。このOBTのコラムにも書いたし、雑誌でも触れたことがある。
http://www.venus.dti.ne.jp/%7Ekazunari/column/column04_8_12.htm#04/11/11%20%E8%87%AA%E6%AE%BA
http://www.venus.dti.ne.jp/%7Ekazunari/dondon/97_08nayami.htm
自ら死を選んだ従兄弟や友人たちと、彼が似ていたことが不安だったし、 なにより彼が孤独感に追い詰められて生きる気力を失いかけていることが、ぼくも身に染みているから、彼が「死にたい」と漏らしたときには、 不安でいてもたってもいられなかった。
引かれたレールの上を行くのではなく、自分で自分の道を切り開いていかなければならない人間は、常に大きなストレスに晒されている。 自分で判断して先に進んだことでも、果たしてこの選択は間違っていなかったのかと不安だし、斬新なことを行おうとする人間には、 目に見えるものから見えないものまで様々な圧力や妨害が加わる。あるいは、信頼する人間が見つからず、無情な無理解に晒される。
そんなとき、支えになるのは、もっとも身近にいる人間しかいない。
でも、そんな人間が無理解で、さらに追い打ちをかけたら……。
彼は、とてもきまじめな人間だ。だから、無理解に晒されても、なんとか理解してもらおうと努力し、余計にエネルギーを使った。彼は、 とても辛抱強い人間だ。だから、理解してもらおうという努力が実らなくても、無理解に必死で耐えて、家庭人としての責任を果たそうとした。
それが彼を追い詰めた。
「本当は、自分を理解して、一緒に考え、一緒に歩いてもらえればいちばんなんですけどね。でも、そうでなくても、 どうしようもなくなったときに、優しく、『大丈夫』と包み込んでくれるだけでいいんですよ……」
久しぶりに会って、じっくり酒を飲むうちに、彼は、そうぼそりと呟いた。
でも、そう呟く彼からは、あのときの危うい雰囲気は消えている。
「今思えば、互いに不幸だったんですね。初めは、価値観が違う者どうしが一緒になれば、 互いに意見を言い合えたりしていいと思ったんですが、自分が仕事に全力を注がなければならなくなると、無理解が重荷になってくる……。 助けとは言わないまでも、暖かい抱擁が欲しいときに、正反対の心ない言葉が飛んでくることで、どれだけ心が傷つけられたか……。でも、 それは、言葉を吐いたほうも同じなんですよね」
「今、別れて、離れてみると、ほんとに互いのために良かったと思います」
爽やかに、そう言った彼だが、どことなく寂しそうだった。
『伴侶』とは文字通り道連れのことだが、道なき道を行く者にとって道連れは、ともに道を切り開いてくれる者か、 あるいはいつも側にあって、汗を拭い、励ましの言葉をかけてくれる者でなければならないだろう。さもなければ、 必死にしがみついた断崖からいつか落ちてしまう。あるいは、いつまでも尽きない藪に疲弊して、何も切り開けぬまま、 そこで力尽きてしまうだろう。
人それぞれ、自分がどんな道を歩んでいるのかを見極めて、その上で、ともに歩める道連れを見つけなければ互いに不幸になってしまう。
道なき道を行く者にとっては、せめて、その途方もない孤独感と孤立感を少しでも和らげてくれる道連れが必要だ……。
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