**集落の外れにある街道の入口。 朝から降り始めた雪が小一時間でけっこうな積雪になっていた**
当日の朝、長野市を出るときには青空が見えていて、発達した低気圧も北へ抜けたので(この低気圧が北海道で発達して、 佐呂間の竜巻災害を巻き起こしました)、白馬も天気は回復するだろうと予測していました。
ところが、山を越える毎に雲が厚くなり、姫川沿いに出ると、かなりの吹き降りに。どうやら、気圧配置が本格的な冬型となって、 日本海に近いこのあたりは「冬本番」と同じ状況になったようです。気温も上がらず、野平を出発するときには、 まるで北アルプスに向かうような冬山装備となりました。
**かつて修験者が修行していたと言われる室。 微かに暖かい蒸気が吹き上げている**
高度を上げていくにつれて、積雪は深くなり、また雪の降りも強くなって、ついには吹雪に。道の整備という名目がなければ、 地元のひとたちも登山を中止するところです。
そんな中、「さすが風切地蔵。きっと安直に出会えてはありがたみも少なかろうと、演出してくれているんだな」 などと軽口で寒さをこらえながら登っていきます。
集落を出て登りにさしかかるとすぐに番屋跡があります。テラス状の少し奥まった場所にあって、 登っていくと直前まで気がつかないようになっています。ここの番役人は、野平の人たちが勤め、「怪しい者は切り捨て御免」 の許しが与えられていたそうです。
**稜線に出るといよいよ吹雪が酷くなり、少し立ち止まっただけで凍えてしまう**
また、街道周辺には、山を自由に渡り歩いた木地師の痕跡や修験者が修行した跡などもあって、かつては旅人が行き交っただけでなく、 この山で、様々な人が暮らしていたプロムナードのようなものだったことを伺わせます。
「オラとこの婆様なんて、若いときにこの街道通って、善光寺まで日帰りで往復したって聞いとるけんど、 善光寺往復っていったら100kmだからなぁ。昔の人はほんとに健脚だったんだなぁ」と、ぼくたちを先導してくれる区長さん。
ぼくたちが喘ぎ喘ぎ登っていくこの山道も昔、歩いて往来した人たちにはごく普通の道だったのでしょう。
民俗学的には、峠は木地師や修験者(山伏)といった尾根筋を道として山を渡り歩く「山の民」と里人が出会う場所で、 人間離れしたスピードで山野を渡り歩く山の民を里人はさきに「鬼」と思って恐れたといいます。 往復100kmの山道をものともせずに往復する人が恐れるような山の民の健脚ぶりは、今ではまったく想像がつきません。
そんな山の民も里人も、それだけタフでありながら自然を畏れ、 風や雪の害から逃れようと必死の祈りで風切地蔵を困難な山の上に設置したのです。逆に、自然から遠く離れてしまったぼくたちには、 自然の怖さが実感できず、闇雲に科学技術を使ってそれを破壊していって、あとで大きなしっぺ返しを食らうことになるのかもしれません。現に、 地球温暖化による異常気象など、その兆候ははっきり現れてきています……。
**野平を出発して3時間、柄山峠に到着。左が風切地蔵(延命地蔵)、 右が大日如来像**
野平を出発してから3時間。ようやく柄山峠に出て、風切地蔵とご対面できました。しっかりした囲いに守られて南を向く地蔵は二体。 錫杖と玉?を持った風切地蔵と大日如来像がセットになっています。
冬至の日の出と夏至の日の入りの方向を指し示す直線で結ばれる三体の風切地蔵のうち、 北の端に当たる小蓮華山は、新潟県側では「大日岳」と呼ばれてきました。そして、この柄山峠には大日如来像が……大日とは太陽のこと、 その太陽が生まれ変わる日である冬至と、太陽の力がもっとも強くなる夏至の日、地蔵によって大日と大日が結ばれる。
そこには、昔の人たちの切実な祈りとともに、その想像力の豊かさを感じさせられます。
**舞い込んだ飛雪が固まり、凍えているように見える二体のお地蔵様**
……続く
野平のお地蔵さんのほうは、野球帽被っていました(笑)
投稿情報: uchida | 2006/11/22 01:00
ほっかむり かぶせたい
お姿ですね。
投稿情報: よか | 2006/11/19 11:54