ときどき自分の意識にそのときの思考や状況とまったく関係ない「風景」が唐突に現れることがある。風景がはっきりと目に浮かぶわけではなく、自分がある風景の中に佇んでいる雰囲気がひしひしと感じられるのだ。
荒涼とした地の果て。周囲に生き物の気配はほとんどなく、前も後ろも右も左も地平線まで頼りない草と礫の混じったいかにも痩せた土地が続いている。
空には今にも雪を降らせそうな厚い雪雲があって、間近に目に見えない怪物がいて荒い息をするように、冷たい風が不規則に吹いている。
ありふれた日常の中で時々、そうした風景がぼくの意識の中に忍び込んでくる。
今ここにいると感じている「日常」が、じつは空蝉の姿であって、本当の自分は荒涼とした風景のほうにあって、空蝉をイメージしているような現実感の逆転した気分。
ジャンキーだったらまさしくフラッシュバックなのだろうが、ぼくにとってのこの感覚はけして不快なものではない……というよりそれは不思議な安心感をもたらしてくれる。
人間なんて芥子粒同様でまったくの無力に感じられるその荒涼の風景の中に一人ポツネンとしているぼくは、何も考えず、ただ冷たい風によって風化されるにまかせ、細胞が砕け散って風景の中に拡散していくにまかせている。
そして、肉体を亡くしたぼくの意識はその風景の意識と同化していく。そこには「個」を喪失していくことの寂しさや悲しさではなく、「個」を喪失することで「個」の呪縛から抜け出し、ずっと自由になる快感がある。
もしかしたら単なる日常からの逃避なのかもしれない。
でも、ぼくがこの空蝉の世でバランスを保って立っていられるのは、そんな空想の風景がいつも心のどこかにあって、時々空蝉の自分に冷たい風を吹き込んでくれるからだと思う。
以前、そんな風景をはっきりとイメージできたことが二度あった。最初は宮内勝典の「ぼく始祖鳥になりたい」の中に出てきた「ペインテッドデザート」の記述を読んだとき。そして二度目はその直後、まさにペインテッドデザートと思しき風景が「いいちこ」のイメージポスターの写真になっているのを発見したとき。
宮崎勝典の記述を読んだときは、そのくだりを何度も読み返しているうちにはっきりとあの風を感じた。そしてポスターと対峙したときは、その中から風が吹いてきた。そのときのことはいずれも過去にこのコラムにも書いた。
今読んでいる「風景と記憶」では、「風景はそれが発見されるからこそ風景になる」と冒頭に示される。その伝でいえば、ペインテッドデザートのような実在の風景が、ぼくに発見されることを待っているのかもしれない……。
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