先週末、恒例の「八ヶ岳スノーシューオフ」を開催した。
イベントの詳細は特集のほうに書いたが、久しぶりに八ヶ岳山麓を訪れて、かつて自分が八ヶ岳山麓で「森の生活」を営むつもりでいたことを思い出した。
学生時代、暇があれば山に登っていたぼくの一番の気に入りの山域は八ヶ岳だった。
北は蓼科から南は小淵沢、西は茅野から原村あたりまで、東は八千穂から清里まで、広大な麓まで含めて、八ヶ岳という場所はぼくの心と体と土地の雰囲気が一体であるかのように馴染んでいる。
清里から長い尾根筋を詰めて赤岳に登り反対側の赤岳鉱泉に下山したり、赤岳鉱泉をベースに赤岳や阿弥陀を巡ったり、あるいは麦草峠から入山して赤岳まで縦走したり、冬に本沢鉱泉から夏沢峠を越えたり……、様々なルートから山に取り付き、それぞれの山行でいい汗をかき、いい思い出を携えて様々な場所に下山した。
八ヶ岳のどの山に登っても、どこに下りても、そして登降の間に通過するどの場所も、そこが「自分の場所」だと感じられるしっくりと馴染んだ土地で、何度訪れても心安らぐ場所だった。
大学の四年間通いつめる中で、ぼくは、卒業したら八ヶ岳の麓のどこかに居を置いて、山を生活の中心に据えるつもりでいた。
当時のぼくの生活のイメージは、まさにソローの「森の生活」だった。
当時は、ごく一般的に社会人になって街で暮らそうとは露ほども考えていなかった。
一人で小さな小屋に住み、煩わしい世間とは距離を置いて、静かにミニマムな晴耕雨読の生活を営む……。頑なでストイックだったあの頃、自分の気持ちに素直にそんな生活に飛び込んでしまっていたら、今頃はどんな人間になっていただろう?
あれから20年以上、当時思い描いた生活とはかけ離れた環境に身を置きつづけてきた。
久しぶりにお馴染みの場所を訪ねると、当時の感覚がよみがえってきて、そこには、20年前にイメージした森の生活にそのまま入った自分がいて、ふいに出くわしそうに思えた。
そして、20年間、「自分の場所」から切り離され、常に違和感を持って生き続けてきたような気がした。
やっぱり山はいい。人や世の中がどんなに変わっても、どっしりと昔のままにそこにあって、いつでも待っていてくれる。
スノーシューで八ヶ岳山麓を巡り歩き、夜は表に森々と雪が降り積もっていく中でロッジの薪ストーブの温もりに包まれてゆったり過ごしていると、そろそろ昔イメージしていた「森の生活」に入っていくいい時期なのかもしれないと思った。
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