信州白馬に魔除けの結界を作る「風切地蔵」
長野県白馬の言い伝えに 「風切地蔵」というものがあります。
北アルプス(後立山連峰)の一角、 白馬岳に連なるピーク 「小蓮華山(大日岳)」に、 風化が進んで一見すると地蔵ではなく古いケルンのような地蔵が一体あります。 さらに、 この小蓮華岳の麓の落倉に一体、 そして遠く鬼無里の今は使われなくなった古い街道の峠に一体、この三体の地蔵は「風切地蔵」 と呼ばれています。
じつは、 地元長野放送の特番で、この風切地蔵を取材する予定で、今、いろいろと情報を集めながら、取材プランを練っているところなのです。 直接、これがアウトドアアクティビティとなるわけではないのですが、デジタルマップを使って様々なシミュレーションを行い、 そのデータをハンディGPS に転送して、それを持参してフィールドワークを行う予定で、 それは一連のプロセスが登山やトレッキングに応用できますし、また、最近脚光を浴びている文化遺産などを訪ね歩く 「ヘリテイジツーリズム」にも通じるものがありますので、幾度かに渡ってご紹介していこうと思っています。
**小蓮華山、麓の落倉、旧街道の柄山峠の三カ所に「風切地蔵」がある。 この三点は冬至の日の出を指し示す直線上に並ぶ**
(画像は、 スーパマップルデジタルver7上でシミュレーションしたものを背景をモノクロにして、 画像出力したもの)
第一回は、 デジタルマップを使ってのシミュレーションと、取材のプランニングについてご紹介します。
さて、話を「風切地蔵」 に戻します。先に挙げた「白馬小蓮華山」、「落倉」、「柄山峠」の三カ所にある風切地蔵は、きれいに直線上に並んでいます。 地元の古老によれば、それが「結界」を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられているのだそうです。
**落倉にある「風切地蔵」。地蔵は小蓮華山の地蔵を背にして、真っ直ぐ柄山峠を向いている。由来にも、 はっきりと三つの風切地蔵が直線上に並んでいると記されている**
実際、 この三つの地蔵を結ぶ直線の北側ではしばしば風水害に見舞われて道や鉄道が寸断されたり、 冷たい風による凶作などの被害が多いのに対して、南側ではほとんど災害に見舞われることがないのが不思議です。
冒頭の地図は、小蓮華山、落倉、 鬼無里柄山峠の三点をスーパーマップルデジタルver7を使って結んでみた図です(地図上に引いたラインがわかりやすいように、 モノクロ表示してあります)。 三つの風切地蔵がきれいに直線上に並んでいるのがわかります(ご存じのように地球は球体ですから、この直線が長くなると、実際には『開曲線』となって、 見た目には直線でも実際にはそうではないということになりますが、この三点を結ぶ程度の長さなら、 ほぼ見た目と実際は一致しています)。
試しに、 この直線をさらに南東に伸ばしてみたところ、もう一つの「地蔵」にぶつかりました。県道86上の地蔵峠。ここの地蔵は「風切地蔵」 とは呼ばれていないようですが、地蔵繋がりであると同時に、この直線上に「青鬼神社」や「虫倉神社」 といった由緒のある社が並んでいるのも興味深いところです。
冬至の太陽と魔除けの秘密
**01冬至の日の出を指し示すこの直線を伸ばしていくと、「地蔵峠」に当たる。02同じ方位角で並ぶ戸隠の直線。 03戸隠奥社の直線詳細**
この直線が意味しているのは、 じつは冬至の日の日の出の方向です。小蓮華山から落倉、柄山峠の風切地蔵の方向は、方位角118度で、 これはちょうど冬至の太陽が昇ってくる方向となります。つまり、小蓮華山から地蔵峠を結ぶ直線では、 その上に位置しているポイントからは、同じライン上の南東方向のポイントは冬至の日の出の方向に一致しているというわけです。
冬至は、古代の太陽信仰では、 その日に太陽が死に、翌日、再生して生まれ変わる日とされます。今も世界各地に残る「冬至祭」 や古代ローマの農耕豊穣祈願の祭りであった「サトゥルヌス祭」が転嫁した「クリスマス」も、やはり恵みの太陽が生まれ変わって、 翌年のさらなる恵みをもたらしてくれるように祈るものです。
さらに、冬至の日の太陽は、 黄泉の国へと穢れを運び去ると同時に、自ら再生の力を秘めていることから、「魔除け」の力を持つとされます。 この風切地蔵が形作る冬至の日の出を指し示す直線は、地蔵を通じて太陽=大日神と「交信」 を行う仕掛けだったのかもしれません。 ちなみに、白馬蓮華山は別名「大日岳」とも呼ばれますが、 この呼称は太陽信仰と風切地蔵の結界が強力に結びついていることを暗示しているといえるでしょう。
日本には、古来から 「石文(いしぶみ)」という風習がありました。自分の意志を神へ伝えようとするとき、石にその思いを込めて、それを神殿に供えたり、 道祖神として置きます。すると、神に願いが届き、それがかなえられるとされていました。長野に多く残る道祖神は、 まさに石文そのものですし、神社の鳥居などに石礫(いしつぶて)を投げて乗せる風習も石文の名残といえます。 風切地蔵が形作るのは、 壮大な規模の石文であるといえます。
ところで、 この風切地蔵ラインにほど近い、戸隠にも冬至にまつわる伝説があります。 それは、アマテラスが隠れた天の岩戸が開いたときに、 天に舞い上がった岩戸が戸隠に落ちたというものです。天の岩戸が無くなり、 それが隠されていた場所がこの地であったため「戸隠」 と呼ばれるようになったというものです。
杉の大木が両側に立ち並ぶ2kmにも及ぶ戸隠神社奥社への参道は、 じつは風切地蔵を結ぶラインと平行に、同じ方位角118度を向いています。戸隠神社奥社からこの参道の方向を望むと、 正面に怪無山があり、これが冬至の太陽が昇る方向に当たるというわけです。
冬至の太陽は、 天の岩戸が開いてアマテラス=太陽が再生することに通じ、戸隠の名前にまつわる伝説とも一致する。それにしても、風切地蔵の結界といい、 この戸隠奥社への長大な参道といい、いったい誰が形作ったものなのでしょうか? また、そもそも大昔に、 どうやってこのように正確な配置をすることが可能だったのでしょう?
次回は、具体的な取材プランを、 スーパーマップルデジタルver7で立ててみようと思います。
**参考**
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