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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.298
2024年11月21日号
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◆今回の内容
○メタモルフォーゼする日本の神々
・泰山府君から牛頭天王へ
・八坂神社の祭神
・牛頭天王とスサノオの習合
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メタモルフォーゼする日本の神々
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前回は、中国の皇帝が祀った泰山府君という道教の神が日本に輸入され、それが安倍晴明によって陰陽道の最高神に祀り上げられた経緯をたどりました。しかし、その泰山府君も、今ではただ一社、福井の土御門神道本庁によって祀られるだけとなり、この神の名も珍しいものとなってしまいました。
前回も触れたように、安倍晴明の血を引く陰陽師たちは鎌倉幕府が開かれると鎌倉に大挙して移り住み、鎌倉を陰陽道のメッカのようにしました。さらに室町期には安倍家は土御門家という貴族に格上げされ、かつての陰陽道の本家であった賀茂家を凌駕するようになりました。
そうした安倍=土御門の本流では、当然、泰山府君を祀っていましたから、鎌倉・室町期にかけては、とてもポピュラーな神だったと考えられます。それがどうして廃れていったのか、その経緯を辿ると、日本の信仰史の特徴的な一面が明らかになります。それは、本地垂迹で神と仏が渾然一体となったように、一柱の神が様々にメタモルフォーゼ(変容)していく姿です。変容の果てに、元の祭神からかけ離れた神が祀られるようになるケースも稀ではありません。
今回は、前回に続いて陰陽道の神をとりあげ、日本人の心性の大きな特徴であったともいえる自由闊達な信仰のメタモルフォーゼに焦点を当ててみたいと思います。
●泰山府君から牛頭天王へ
先にも記したように、安倍晴明の血統は鎌倉幕府の成立にともなって、多くが鎌倉に移り、彼らによって、鎌倉にも京都のような結界が多く張り巡らされ、泰山府君祭をはじめとした陰陽道の祭祀も数多く執り行われました。
その後、室町時代に入ると、安倍家は「土御門」の姓を与えられて貴族に列せられ、安倍有世が晴明を上回る従二位まで上り、昇殿を許されます。こうした陰陽道への特別の計らいは、朝廷によるものではなく、将軍・足利義満の意向が強く反映されたものでした。義満は陰陽師を重用し、本来は朝廷が行う泰山府君祭のような国家祭祀を自らが主宰して朝廷の権限を吸収し、政治の実権を握るだけでなく、観念的にも朝廷に対する将軍家の優位を確立しようとしたのでした。
ところが、それで室町時代に陰陽道がいっそう盛んになったわけではなく、逆に鎌倉時代に比べて目立たなくなっていきます。祭祀は主に「泰山府君祭」「天曹地府祭」「三万六千神祭」が行われるだけとなりました。
前回触れたように、土御門家は、陰陽道の「宗家」として全国各地で活動していた法師陰陽師や唱門師、聖、博士、法者、暦売りなどと呼ばれる民間の呪者に免許を発行して、その権利料で潤うようになり、安倍晴明が公職を引退した後も公家相手に「営業」したように、ことさら公家に取り入る必要がなくなったことも影響しているでしょう。
いっぽう、都で宮廷陰陽道が下火になったのと反対に、地方では法師陰陽師や民間の呪者が「土御門門下」という正式な地位を得たことで活躍するようになります。彼らは安倍家が陰陽道の最高神として祭った泰山府君を差し置いて、新たな神々を創造していきました。
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