昔は、よく目的地も決めずにふらりと旅に出た。
二三日分の着替えとテントをオートバイの荷台に括りつけて、何も考えずに走りだす。頭の上を鳥が通り過ぎていったその方向に向かうこともあれば、太陽の方向を目指したり、心地いい風に引き寄せられるように進んで行ったり……その日にどこに辿り着くかはまったくわからない。
夢遊病者のようにフラフラと街や里を繋いで、草臥れたら、地元の雑貨屋か何かで買っておいた菓子パンとジュースを飲んで寛ぎ、元気が出たらまた走りだす。
そんな目的を決めない旅のほうが、一日の締めくくりに出会う風景が素晴らしく感動することが多かった気がする。
あるとき、そんな旅をしていて、気がついたら能登半島の先のほうにたどり着いていた。
一日走り詰めでテントを張る元気もなかったので、海岸沿いの民宿に投宿し、夕飯ができるまで寝ていようと、横になってうつらうつらしていると、宿の奥さんに揺り起こされた。
「お客さん、夕日がきれいだから見てくるといいよ。この曽々木海岸の夕日は、日本一なんだから」
寝入りばなで体がだるくて、気乗りしなかったが、あまりに強く勧めるものだから、仕方なく起き上がって海岸に出た。
磯のきれいな海岸で、夏なら海水浴や釣り客で賑わっているのだろうが、季節外れでぼく以外に、海岸に人影はなかった。
細かい砂利の砂を踏みしめながら西へ傾きかけた太陽を見ていると不思議な気がした。
ぼくは太平洋岸の町に生まれ育ったので、海からは太陽が登ってくる光景しか知らなかった。水平線から登った太陽の光が、夜明け前のキンと張り詰めた空気を引き裂いて海岸に達し、それに射抜かれると、身も心も引き締まった。太陽が完全に登り切ると、それまで眠っていた生き物たちが植物も動物も一斉に目を覚まし、カーニバルが始まったように賑やかな気配が満ちてくる。そんな瞬間が好きで、高校に上がってオートバイに乗り始めると、しょっちゅう夜明けの海を見に行った。
日本海に沈んでいく夕日は、そんな朝日と対極にあって、なんだかとてもさびしいものに感じられた。そして、「黄昏」という言葉が思い浮かんだ。
「ああ、こうして、朝に生まれた太陽は、今、黄昏を迎えて、死んでいくんだな……。人の人生というものも、最期には、こういう光を放つんだろうな」
ぼんやりとそんなことを考えながら、だんだん赤みを増していく空を眺めていたら、急に背後の民宿の引き戸を開ける音がして、半ば夢見心地だった気分を現実に引き戻された。
振り向くと、髪の長いスリムな女性が、こっちへ向かって歩いてくる。挨拶を交わすと、彼女はぼくの横に並んで、同じように海を眺めた。そして、深い溜息をついて言った。
「私、早く東京に帰りたい。もうこんな不便な田舎は嫌。バスなんて、二時間に一本しかないのよ。しかも最終は5時。それに乗り遅れて、こんな辺鄙なところに泊まるハメになっちゃった……」
ちょうど太陽上辺が水平線に没して、一瞬、空全体が茜色に染め上げられたところだった。
でも、彼女は目を開けてはいても、その光景を見てはいなかった。
心が追い詰められたとき、憂鬱に取りつかれたとき、ぼくは、あの時の彼女を思い出す。そして、心をプレーンにして、目の前に展開している素晴らしい光景をしっかり目にしようと思う。
コメント