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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.313
2025年7月3日号
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◆今回の内容
○異界をめぐる人間の想像力
・異界という名の窓
・聖地と異界
・異界交通の技法
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異界をめぐる人間の想像力
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この数ヶ月の間に、親しい友人や知人が相次いで亡くなり、私のような無神論者でさえ、ふと、故人の魂の安らぎを祈らずにいられない場面がありました。死後の世界など信じないと自認しながらも、気がつけば掌を合わせている――そんな自分を顧みると、人は理屈を超えて、何か「この世ならざるもの」を求めてしまう生き物なのだろうと思えます。
5月30日に亡くなった宗教学者の鎌田東二さんとは、朝日カルチャーセンター湘南教室で講座を持っていたときに、講師控室で何度かお会いしました。短い時間しかお話できませんでしたが、彼の著作には大きな影響を受け、勝手に師の一人と仰いでいたこともあって、まだ74歳という若さで亡くなられたことが残念でなりません。
私がレイラインを辿るようになったのは、鎌田さんが『聖トポロジー』という著作で紹介していた「ご来光の道」の話を読んだのが一つのきっかけでした。初めてお会いしたのは、15年ほど前ですが、その時、「ご来光の道をGPSとデジタルマップを使って実際に辿ってみて、広域的な配置の正確さと個々の寺社の構造がネットワークを物語っているように見える」と私が話すと、「自分は感覚が主体だけど、そういう科学的な手法でフィールドワークすることはこれから重要になってきますね」と答えられたのが、今でも心に残っています。
前回の日本庭園の話では、平安時代後半から末法思想の影響で浄土式庭園の造営が盛んに行われたことに触れましたが、最近の自分の心境を重ねると、当時の人たちが「浄土」を信じ、なんとかそれをこの世に具現化しようとした心の動きが、前よりも腑に落ちます。
仏教における浄土思想だけでなく、世界中の文化に「この世」とは異なる「あの世」「異界」のイメージと、それに付随する成仏や浄化の概念があります。いや、ただ「ある」というよりも、「そうした概念を持たない文化はない」と言ったほうがいいでしょう。そうした概念は、死や喪失、苦難を生き抜く人間の「縁(よすが)」であり、「肉体が死ねば、それですべては終わり」という唯物論的な生命観ではどうにもならない、虚無の淵に直面したときの救いの想像力ともいえるでしょう。
●異界という名の窓●
異界やあの世といった概念は、宗教の神話にとどまらず、哲学、文学、現代アートやポップカルチャーなど、あらゆる表現の中でも繰り返し立ち上がってきます。その背景には、人間という存在の「不全感」や「限界感」があり、その壁を超えた「先の何か」に対する絶望と希望が複雑に絡み合っているといえます。
私たちは、死や喪失、偶発的な災い、理不尽な苦しみ、孤独、そして世界の不可知性にさらされながら生きています。とりわけ「死」と真正面から向き合うとき、異界は突如としてリアリティをもって立ち現れます。「死者はどこへ行くのか」「なぜ愛する者は帰ってこないのか」「なぜ生きるのか」。こうした問いに、「この世」だけで納得するのは難しい――だからこそ、「現実世界とは異なるもうひとつの秩序」「死後の世界」「絶対的な正義が実現する場」としての異界が必要とされるのでしょう。
仏教における「浄土」や「涅槃」は、苦しみと輪廻からの最終的解放を示すものです。現実世界の無常・苦・空虚を直視しながらも、どこかに救済があるという逆説的な希望が来世や浄土への信仰を支えます。
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