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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.304
2025年2月20日号
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◆今回の内容
○信仰と宗教のルーツとメンタライジング
・メンタライジングの発達が宗教を生んだ?
・メンタライジングと脳
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信仰と宗教のルーツとメンタライジング
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この講座では、神性や霊性というテーマを何度か取り上げました。
西行が伊勢に草庵を結んでいたとき、神宮をお参りして詠んだ「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌が表すように、明確に「何」とは言えないけれど、感じられる「気配」のようなもの。端的にいえば、そうした淡やかな感覚を引き起こすものを神性や霊性と名付けたといえます。そうした神性や霊性につながる気配というものは、多かれ少なかれ、誰にもあるものだと思います。
ところが、それが「信仰」となるとだいぶ様相が違ってきます。信仰は、信じる明確な対象があり、それが自分の信念となるようなものです。もはや「気配」ではなく、信仰者にとっては明白に存在するものとなります。そうしたものが「神」ともいえます。
どうして人は、神性や霊性といった淡い感覚にとどまるだけでなく、信仰へと進むのか。私にとって、それは大きな謎であり、それを探求することが、この聖地学の大きなテーマのひとつでもあります。
人類学者のパスカル・ボイヤーと心理学者のジャスティン・バレットは、「行為主体過剰検出装置 (HADD)」という概念を使って、気配が信仰へと遷移するメカニズムを説明しています。HADD とは、動物に備わった本能の一部ともいえるもので、森の中で小枝が折れる音がしたら、捕食者が接近していると瞬時に判断するようなことを指します。野良猫が餌を食べているときに、しきりに耳を動かして周囲を気にしていて、わずかな気配でも顔を動かして退避姿勢を取るようなものです。
そうした過敏な反応は、ほとんどは取越苦労となりますが、それでもHADDは常に稼働しています。それは、可能性は低いとしても、捕食者に捉えられるよりは、過剰反応しているほうが総合的に見た場合にリスクが少ないからです。
「天災は忘れたころにやってくる」という格言を肝に命じていて、実際に天災に見舞われた際に命拾いするというのも近いかもしれません。東日本大震災のときには、「津波てんでんこ(津波が来たら人にかまってないで、それぞれてんでに逃げろ)」という土地に残る言葉をとっさに思い出した人が助かったという事例がたくさんあったように。
ボイヤーとバレットは、人間でも、こうしたHADDのメカニズムが働くことによって、信仰が生まれると考えました。すぐに説明できない現象に遭遇したとき、「神」のような見えない神秘的な存在を想定し、海が怒っているとか、空模様が険悪だとかいうように物理現象にまでその存在の動機を当てはめようと考え、それが行動全般に浸透して、HADDを稼働させていると考えたのでした。
「パスカルの賭け」というのも、まさにそうした原理に関わっています。パスカルは、神の存在を証明することはできないが、人間は信じるか信じないかの選択を迫られると考えました。「神を信じることで永遠の幸福がもたらされる」と「神を信じないことにより永遠の苦しみがもたらされる」という証明しようのない定義があると、たとえ神の存在の確率が低くても、合理的には信じた方が得であると判断するわけです。
こうした説明は、納得できる部分もありますが、信仰という精神現象がそのようなリスクヘッジと本能だけで説明できるかというと釈然としません。だとすれば、ほかにどんな要素が、信仰や宗教の原理となっているのでしょうか。
●メンタライジングの発達が宗教を生んだ?●
信仰や宗教は、心に関わるものですから、心理学的なアプローチも参考になります。中でも、「心の理論」あるいは「マインド・リーディング」とも呼ばれるメンタライジングは関係が深そうです。
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