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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.294
2024年9月19日号
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◆今回の内容
○人間中心主義を超えて
・新しいシャーマニズムやアニミズムへのアプローチ
・精神の生態学
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人間中心主義を超えて
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この夏は…もう秋分も間近ですからまぎれもない秋のはずですが…いつまでたっても猛暑が続き、かつてはエアコンなどなくても快適だった私が住む田舎でも、朝から晩までエアコンをつけっぱなしにして、寝るときにも深夜過ぎまでタイマーをオンにしておかないとまともに寝られなくなっています。
「人新世(ひとしんせい・Anthropocene)」という言葉が一般名詞としても定着し、人間活動が地球環境を悪化させていることをこの暑さで身にしみて感じるようになっているわけですが、このまま後戻りのできないティッピングポイントを越えて、人類の存亡さえ危うくなると感じながらも、すでに手遅れではないかという無力感にも囚われてしまいます。
人と自然が調和して暮らしていた世界として縄文時代に関心が集まったり、アイヌの文化が見直されたりしているのも、人新世に対する反省と、これを克服する道を求める気持ちから発しているものと思いますが、観光に結びつけられたりして、どこか皮相に感じられてしまいます。
そんな中、希望を感じられる分野があります。それは文化人類学です。近年の文化人類学では「参与観察」が重視され、学問的な観察者としての立場だけでなく、伝統的な生活を続ける少数民族の社会に入り込み、その生活や儀礼に積極的に参加することで、彼らが培ってきた自然と彼らとの関係性を追求し、実践的な知見を得ようという流れが強くなっています。
とくに、採集・狩猟文化の世界観やその表現型であるシャーマニズムやアニミズムの思考の「原理」を深く追求する研究が進んできて、そこに人新世の流れを根源的に変える可能性を感じさせます。
この講座の227回では、デンマークの人類学者であるレーン・ウィラースレフがシベリアの採集狩猟民ユカギールと生活をともにした体験をまとめた『ソウル・ハンターズ』を取り上げましたが、そこでウィラースレフは、とくに、ユカギールの狩猟者にとっての「精霊」という存在とその機能に注目して、彼らが自然というものをただ可視的な世界として捉えるのではなく、不可視の領域まで拡大した存在としてとらえ、人間もそこに「含まれている」という強い認識を持っていることを明らかにしました。
ユカギールの狩猟者たちは、狩られる側の動物の気持ちになり、さらに精霊を通じてその動物と一体化することでこそ獲物をとらえることができると考え、さらに、その「獲物たち」の魂が自分や家族、仲間たちの血と肉となって生き続けると強く信じていました。それは、ウィラースレフ自身がユカギールの狩猟者と寝食をともにすることで得た洞察でした。
ウィラースレフと同じ参与観察者として活躍している文化人類学者にエドゥアルド・コーンがいます。彼は南米エクアドル東部のアマゾン川上流域に住む民族「ルナ(Runa)」とともに暮らし、その民族誌を『森は考える』という著作にまとめました。コーンは、ウィラースレフのスタンスをさらに一歩進めて、人間=ルナだけでなく、ルナたちが非人間的な存在(動物や植物そしてそれらを包摂する「森」)とどのように対話し相互作用しているのかを体験し、自ら森の精神ともいえるものに同化することを試みています。
それは、一見するとシャーマニズムやアニミズムの世界に踏み込み、人間世界を超えた「霊的世界」から俯瞰してみるというアルタード・ステーツ(変性意識)体験のようにも見えますが、コーンは(ウィラースレフもそうですが)現実世界の視点を失うことなく、客観的に観察して、単なる「異界報告」で終わらせるのではなく、ルナの自然観の詳細な分析を行ってそこで得られた知見が行き詰まった現代社会に新たなビジョンをもたらすことに傾注しています。
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