遅れ馳せながら。
どうも、宣伝先行的なベストセラーには嫌悪感があって、手が出ないのだけれど、一応、環境危機問題に取り組んだ著作として押さえておいたほうがいいだろうと。
先入観に反して、なかなか辛辣で面白かった。
著者は、マルクスの研究者で、とくに、『資本論』以降、晩年までのマルクスの研究を追っている。マルクスは、資本論では資本による労働者からの収奪をテーマにした。しかし、資本論以降方向性を変え、地球資源の収奪とそれが環境にもたらす不可逆的なダメージが根本的な問題であり、最終的に「脱成長」を実現することで、資本主義が超克されると考えるようになった。それが、緻密な研究ノートに記されている。
マルクスが、まさに、今、人類が喉元に突きつけられている環境危機を先取りしていたという視点がとても新鮮だった。
以前から、マルクスは協同組合社会を理想と考えていたということは知っていたが、それが<コモン=私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理>を意味するということと、そこに至る思考のプロセスが丁寧に辿られている。それで、協同組合思想もよくわかった。
この数ヶ月、環境危機に取り組んだいろいろな著作を読んでいたけれど、それらにも言及してあって、それぞれに抱いていた「帯に短し襷に長し」といった感じの違和感もかなり解消した。
今の我々は、あまりにもどっぷりと資本主義に浸かってしまっていて、そこからなんとか抜け出せないかと思っても、「もうどうしようもない」という諦念が先に来てしまう。
SDG’sやらグリーン・ニューディール、それに環境工学なんて言っても、どれもこれも欺瞞とポーズにしか思えない。資本主義こそがこの問題の元凶と捉えれば、いずれも環境危機を訴えながら、それを生み出している資本主義をも成長させようという虫のいい話なのは明白だ。結局「二兎を追うものは一兎も得ず」で、それが感じられるから、初めから胡散臭く感じられたというわけだ。
諦念派は、「資本主義が終わる前に世界が終わる」と嘆いて思考放棄してしまうけれど、根本を見直せば、「世界が終わる前に資本主義を終わらせる」と前向きに考えられるはず。その具体策が、かつてあったコモンを参考にしつつ、現代的なコモンを築き上げていこうということ。
考えてみれば、日本の縄文時代というのは、典型的なコモンの社会であって、それを1万5千年も続けたという「実績」がある。そうした縄文の心性とでもいうべき感覚は、「八百万の神」というように、つい最近まで、我々の心に残っていたはずだ。
「八百万の神」というのは、ただ単に万物に神が宿るというアニミズム的な意味合いだけではない。古来の日本人にとっての「神」とは、西行が「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と読んだように、あからさまに姿を現すものではなく、あくまでも「気配」であって、それは、感性が磨かれていなければ覚知できないようなものを指していた。
そんな感覚が我々に残っているとすれば、ポスト資本主義のカタチを考える上で、活かせるセンスだと思うのだが…。
しかし、神社ブームでごった返しているそこかしこの聖地を見るにつけ、聖地も資本主義にどっぷりと飲み込まれてしまって、もはや縄文の感覚なんて、一欠片も残っていないんじゃなかろうかと諦めの気持ちにもなる。
そんなことをつらつらと考えさせられた。
ちょうど、次に配信する「聖地学」は、「聖地のフラジリティ=神なるものの気配」がテーマで、いずれ、そのテーマを発展させて、聖地学の中でポスト資本主義についても探ってみたいと思った。
それにしても、今まさに沸騰しようとしている鍋の中で、我々人類というカエルは、何も気づいていない……そのことを考えたくない……ようで、ほんとに悲しくなる。
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