この7日に始まったハマスによる対イスラエル戦争と、それに対するイスラエルの報復は、すでに混迷を極めている世界にあって、大きな破局につながっていきそうな不気味な危機感と、どうしようもない憎しみの連鎖への絶望的な嘆息をもたらしています。
パレスチナの問題は、かつては、日本赤軍もからんだテルアビブ空港乱射事件などもあって、日本人にもそれなりに関心の深い問題でしたが、今は、世界のメディアがライブで流しているのに対して、日本のメディアもSNS界隈もすっかり無関心になっているようです。
かつて、「ガラパゴス化」などとハイテク分野で言われましたが、もっともガラパゴス化しているのは、世界情勢についての知識や関心ではないかと思います。
パレスチナ問題の背景にある歴史の複雑さ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「兄弟宗教」が抱える近親憎悪的感覚が理解しにくいことも、関心が持ちにくい要因だとは思いますが、それらは、世界を理解する上で、とても重要な事柄です。さらにいえば、ほとんどの国際紛争が領土やエスニシティに関わることであることを考えれば、日本も他人事ですまされることではありません。
そうしたことのすべてをここで語ることは不可能ですが、ちょうど、聖地学講座で、以前、エルサレムという聖地の複雑さについてまとめたことがあったので、ここに全文を公開します。
エルサレムの成り立ちと、この聖地を巡る長い長い攻防の歴史は、パレスチナの問題を理解するための、一つの手がかりになると思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.128
2017年10月19日号
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◆今回の内容
◯エルサレムに見る「聖地性」
・4000年間の固執
・記憶の場
・天上のエルサレム
◯お知らせ
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エルサレムに見る「聖地性」
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私は、若い頃から砂漠に憧れ、カリフォルニアやアリゾナの砂漠でオフロードバイクを走らせたり、メキシコのバハカリフォルニアで行われるデザート(砂漠)レースに出場したり、タクラマカン砂漠を旅したりしてきました。
砂とまばらな灌木があるだけで、見渡す限り他に何もない砂漠という環境は、そこがあまりにも何もなさすぎるがゆえに、そこに様々な存在を妄想したりあるいは投影して、イマジネーションが果てしなく膨らんでいきます。そんな体験をすると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が砂漠という環境から生み出され、いまだに砂漠の中に根源的な聖地を持っていることが、自然に納得できます。
エルサレムという聖地には、まだ残念ながら足を踏み入れたことがないのですが、砂漠の宗教が生み出され、今でも三つの宗教にとってあらゆる聖地の中心である「世界の臍」として、その信者を惹きつけていることに興味を掻き立てられてきました。
ルーツを同じくする三つの宗教が、2000年以上に渡って互いに血で血を洗う抗争を繰り広げ、しかし、猫の額のようなエルサレムの旧市街にひしめいて共存していることに驚異を覚えます。それは、エルサレムにしばらく滞在して、その空気に浸らなければわからないものでしょう。
最近、何故かそんなエルサレムが気になって調べたりしていたのですが、この数ヶ月のうちに、エルサレムやイスラエルと関係の深い人と何人も知り合うことになりました。ある人は、イスラエル大使館に長い間勤められていた人で、当然、エルサレムのことはよく知ってます。また、ある人はエルサレムと関係の深いユダヤ教エッセネ派の研究者で、とくに歴史に造詣の深い人でした。また、つい最近までエルサレムに滞在されていたという人もいます。
ある場所のことを意識するようになると、自然にその場所に呼び寄せられるようなことが起きますが、ついに私もエルサレムに呼ばれだしたのかなと思っています。そんなこともあり、今回は、エルサレムという聖地に焦点を当て、そこに見える典型的な「聖地性」を検証してみようと思います。
今回を第一部として、彼の地への訪問がかなったら、第二部のレポートをお届けしようと思います。
【4000年間の固執】
エルサレムの歴史がはっきりと史実として記録されたのは、紀元前1000年頃、ダヴィデ王のときです。ダヴィデは初代イスラエル王サウルの後を継ぎます。ダヴィデの息子はソロモンで、この親子の代に古代イスラエル王国は黄金時代を築きます。
ダヴィデは、砂漠の中の荒涼とした丘の上にあったエルサレムの砦で、大昔のものと思われる聖所を見つけました。このエルサレムの砦は、元々は「サレム」と呼ばれていましたが、サレムはカナン人の宵の明星の神のことでした。旧約聖書では、サレムの祭司王メルキゼデクがパンとブドウ酒をたずさえて預言者アブラハムに会い、「天地の主なる」エル・エリオン(至高の神)の名のもとにサレムを祝福したとされます。
ダヴィデはこの聖所こそがサレムであるとして、ここを世界の臍=中心とした都市を築いてイスラエルの都とします。そして、メルキゼデクが地上と天上を統合する象徴とした紋章を自分のものとしました。
ダヴィデが発見した聖所は、正確にはいつのものか不明ですが、シリアのアレッポ郊外に紀元前二千年紀に存在した古代都市国家「エブラ」から出土した粘土板に記された「サレム」がこの聖所ではないかと推測されています。だとすれば、エルサレムの歴史はダヴィデからさらに1000年昔の4000年前まで遡ることになります。
エルサレムの中心にあった聖所は、その中に巨大な岩を抱いていました。ダヴィデを継いでイスラエル王となったソロモン王は、この岩を覆う神殿を建てました。これは「第一神殿」と呼ばれます。その後、神殿が建つこの一帯は「神殿の丘」と呼ばれるようになりました。
第一神殿は紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊され、紀元前516年にアケメネス朝ペルシャがエルサレム征服後に再建し、紀元前1世紀頃、ヘロデ王の時代に荒れていたその神殿が再興されて「第二神殿」と呼ばれます。しかし、これは紀元後70年に古代ローマ帝国の軍隊によって破壊されます。その後、7世紀の終盤にイスラムがエルサレムの支配者となった時に、岩を覆う形で「カーバ=岩のドーム」が作られ、これが今に続いています。
このエルサレムの真ん中にある聖なる丘をユダヤ人は「神殿の丘」あるいは「モリヤ」と呼び、イスラム教徒は「ハラム・アッシャリーフ」と呼んでいます。
エルサレムに住み、この地を舞台にした様々な文学作品を残したアモス・エロンは、『エルサレム --記憶の戦場』の中で、次のように記しています。「4000年前にスコーパス山かオリーヴ山に立った人が西を向いて峡谷の向こうに見たのは、岩だらけの頂上に作られた小さな要塞の町だった。現在、モスクや尖塔(ミナレット)が立つ壮大な神殿の高台となっているところは、当時はただの小高い高台--丘の上の城塞(アクロポリス)でしかなかった。今でも巨大なドームの下に見られる大岩は、バールの神か別の異教の神を祀る祭壇として使われていた。これも聖地によくある奇妙な倹約精神の一例で、その後次々に生まれた敵対し合う宗教のどれもが、この同じ岩に重要な役割を与えた。ユダヤ人はこれを<礎の石>と呼ぶ。宇宙の創造が始まったのも、アダムが生まれたのもここだという」
4000年の昔、ここは素朴な巨石信仰の聖地だったのでしょう。それが紀元前1300年から1000年はカナン人の神であるサレム信仰の地となりました。そして、紀元前およそ1000年から168年はユダヤ人の唯一神ヤハウェを祀る聖地。紀元前166年から165年はオリンピアのゼウスの聖地。紀元前1世紀から紀元70年は再びヤハウェの聖地。紀元135年から333年はローマ帝国によってユダヤ教の痕跡が一掃された「カピトリーナ」という時代で、このときはローマ神話の天空の神であるユピテルが祀られる聖地とされました。そして、333年から638年の間は空白期間。638年から1099年はイスラムの聖地。1099年から1187年は十字軍によるエルサレム奪還期でキリスト教の聖地。1187年以降は再びイスラムの聖地となります。
大雑把に見ても、この4000年の聖地としての変遷はめまぐるしいものがありますが、さらに細かく見ると、エルサレムを巡る壊滅的な包囲戦は20回を数え、長期間荒廃するまま放置されたことが2回、壊滅した街が再建されること18回、支配宗教の交替は少なくとも11回を数えます。エルサレムを巡って数々の帝国、宗教、民族が果てしなくぶつかりあったため、とうとうエルサレムの北にある名高い戦場ハルマゲドン(現在のメギド)という地名は、「この世の終わり」の代名詞となってしまいました。
エロンは諧謔的に「聖地によくある奇妙な倹約精神」と記しましたが、一つの岩を聖なるモノとして、ここまで固執させるものはいったい何なのでしょう。聖地はたしかに不動のものであり、支配者や宗教が代わっても受け継がれていくものですが、エルサレムほど長い歴史の中で固執され続けてきた聖地は他に見当たりません。人がエルサレムという聖地にこれほどまで固執するのは、そしてそれが4000年も続いてきたのはどうしてなのでしょう。
【記憶の場】
エルサレムの中心にあるこの岩には、様々な神話=物語が染み込んでいます。まず、ユダヤ教の信仰では、神がアダムを作るために土を手にしたのも、アダムが埋葬されたのも、カインとアベルが神に捧げ物をしたのも、ノアが方舟から出て祭壇を作ったのも、アブラハムがイサクを生贄にしようとしたのもすべてここだとされています。
イスラム教では、エルサレムの「神殿の丘」からモハメッドが昇天したという伝承があります。そもそもキブラ(礼拝の方向)はメッカの方角ではなく、エルサレムを向いて祈っていたとされます。後にキブラはメッカの方に変わりましたが、エルサレムはメッカ、メディナについでイスラーム第三の聖都と位置づけられています。
モハメッド昇天の伝承は、いまではユダヤ教にとってのエジプト脱出、キリスト教にとってのマリアの信仰と同様に信仰のコアともいえるものです。しかし、マリア信仰にしても、キリストの死後数世紀の間は影も形もなく、十字軍の時代になって、唐突に広まっていったものです。
キリスト教は、岩のドームの西にある聖墳墓教会を聖地の中心としています。聖墳墓教会にはキリストが繋がれた牢獄があり、アダムの墓、キリストが鞭打ち刑に処された円柱、キリストの聖骸に香油を塗った岩、そして教会の名の由来であるキリストの聖墳墓があるとされます。さらに、最後の晩餐の部屋や復活したキリストがマグダラのマリアに会った場所までここにはあります。
冷静に考えれば、神話に記されたエピソードが、すべてこの狭いエリアに集中していることなどありえないのは明白です。でも、エルサレムでは、それが頑なに信じられ、個々のエピソードや聖遺物(とされるもの)にまつわる儀式が、狭く閉じた世界で果てしなく繰り返されていくことで、次第に現実味を帯びてきました。エルサレムで見られるほど極端ではないにしても、そうした思い込みと反復によって信仰が形作られていくのは他の聖地、他の信仰でも見られる現象です。
「エルサレムを訪れる者は、いわば内なる旅にきていることがしばしばある。目に見えるものはもちろんだが、フランス人のいう<記憶の場(リュ・ドゥ・メモワール)>、つまり人は自分が何者かを自覚する上で核となる規範を崇拝しているのだ。大勢の人が内なるイメージを求め、それを生きるためにやってくる。エルサレムは人が己の精神もしくは心の中で訪れる都市なのだ。ユダヤ人が<ダヴィデの墓>として崇拝し、キリスト教徒が<最後の晩餐の部屋>として崇める建物が中世後期のものだとしても、そんなことはどうでもいい。科学ではなく、信仰が決めた場所だからだ」と、エロンは看破します。
端から見ると不合理極まりないことが教理として多く人に受け入れられ、信じられるのは、信者が客観的な何ものかを求めているのではなく、自分の内側にある漠然としたイメージや思いが、宗教によって具体的なストーリーをともなって投影され、目に見えるもの、触れられるものとして現前するからです。エルサレムという聖地は、それをもっとも端的に表している場所なのです。
ヘブライ語は現代に使われている言語の中でもっとも古いものだといわれています。基本的には3000年前と変わりません。これがユダヤ民族の歴史において他に類を見ない連続性を生んでいます。エルサレムでは12歳の子供が博物館に行って、まったく違和感なく1世紀の碑文も読めるし、「死海文書」も読むことができます。このことがはるかに遠い時代も身近に感じさせ、さらに古来の儀式が繰り返されることによって、より「記憶」として強化されていくのです。
【天上のエルサレム】
エルサレムは、長い間ユダヤ民族にとっては亡国の都であり、実在しながらもそこに立ち入ることのできない幻の聖地でした。そこで、「天上のエルサレム」という概念が生み出されます。実在のエルサレムに代わる神秘的な天上のエルサレムを考えだしたのは、失われた都を思い懐かしむバビロン捕囚中の亡命ユダヤ人でした。「天上の」エルサレムは地上の写しで、神殿があり、預言者や祭司もいるとされました。エジプト、メソポタミア、ペルシヤ、ギリシアの都市国家とローマ帝国の果てまで、ユダヤ教徒たちは離散し、流れていきながら、天上のエルサレムのイメージをいだき続け、そこへの思いを募らせていきました。そして、ユダヤ教徒たちの天上のエルサレムのイメージは、彼らが移り住んだ場所の住人たちにも伝播していきます。
はじめユダヤ教の一派だったキリスト教も、当然この影響を受けます。キリスト教徒たちは、肉体は牢獄で、魂は死後に世界の天の王国、つまり「新しいエルサレム」で解放されるという概念を抱くようになったのです。
いっぽう、実在のエルサレムへの帰還もユダヤ教徒にとって悲願であり続けました。世界中に散らばり亡命を余儀なくされ、迫害され続けながらも、たとえ最期の審判の日になろうとエルサレムへ帰れるのだという希望を捨てなかった彼らは、それをバイタリティにして強烈な民族的紐帯を保ってきたのです。
イスラムがエルサレムの支配者になると、ついにユダヤ教徒にその門が開かれました(十字軍時代のキリスト教徒のエルサレムは、イエスを葬った裏切り者としてユダヤ教徒を憎悪し、受け入れませんでした)。すると、多くのユダヤ教徒が、エルサレムを目指しました。長く天上のエルサレムのイメージを温め続け、実在のエルサレムへの憧憬を募らせるうちに、エルサレムへの道の切符を手にした彼らは、エルサレムで死にエルサレムに葬られるのが、天国への一番の近道だと信じるようになります。
神殿の丘を中心にした旧市街のすぐ外縁には、夥しい数の墓があります。それはさながら死者の王国の様相を呈していると形容されます。「エルサレムでは、死者にも投票権がある」と形容した旅行家もいました。
これらの墓はユダヤ教徒だけでなく、ペルシア支配時代のものやイスラム教徒のもの、そして十字軍兵士のものもあります。しかし、それらは支配者が変わる度に壊されたり、墓碑銘を剥がされたりして、ほとんどが誰のものであるかわからなくなっています。
とくに十字軍兵士の墓の破壊は徹底的で、はっきりと十字軍兵士の墓と認められるものはたった一つしか現存していません。エルサレムと谷を挟んで対峙するオリーヴ山の上とその斜面には、かつて7万あまりのユダヤ教徒の墓がありましたが、そのうち5万あまりは、1947年から67年のヨルダン占領時代に破壊され、あるいは墓碑銘が削られてしまいました。
日本の高野山の奥の院には、武家や公家、商人などあらゆる階層と宗派も異なる墓がひしめいています。戦国武将で互いに血みどろの戦いを繰り広げた者どうしが墓石を並べているような例もあります。
天国=浄土の近くに葬られたいという欲求は同じながら、日本では、死すれば皆同じという一種の仏教観や、死ねば自然に戻るという日本古来の神道的な感覚によって、こうした墓所が静謐に包まれているのと好対照といえます。
その意味では、エルサレムは、死者がいまだに息づき、生きるものに多大な影響を与えているといえます。それが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という同じアブラハムの宗教の近親憎悪的な世界を現出させているのでしょう。
そういったところも含めて、4000年の長きに渡って続く、エルサレムという稀有な聖地の魅力なのかもしれません。
こうして、思いを巡らせているうちに、私の心に生まれた「天上のエルサレム」のイメージもどんどん肥大してきたようです。私のエルサレム巡礼の日も近いのかもしれません。
**今回、本文の中でも引用しましたが、『エルサレム --記憶の戦場』(アモス・エロン著)は、エルサレムの歴史と今を概観するのに、最適の良書です。今回の記事に興味を持たれたら、ぜひご一読ください。
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