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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.269
2023年9月7日号
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◆今回の内容
○神武の尻尾をつかむ
・応神の尻尾
・神武は応神をモデルに創られた
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神武の尻尾をつかむ
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前回は、天叢雲剣がなぜ熱田神宮に祀られているのかという観点から、海人族である尾張氏が出雲征服の主力であり、またスサノオの正体であったことを解き明かしていきました。
今回も海人族にまつわる話で、じつは前回に取り込むつもりでした。しかし、下書きをしてみると、大幅にボリュームオーバーで、話も複雑になってしまうため、独立させて一回分にすることにしました。
結果的に、テーマが明確でわかりやすくなり、前回との関連性もつかみやすくなったと思います。
というわけで、今回は前回の続きとして、日本神話に秘められた実在と創作の関連性について、もう一つのエピソードを掘り下げたものとして読んでいただければ幸いです。
●応神の尻尾●
この講座の第124回『海人族の足跡と聖地』では、海人族が日本の古代史に与えた影響をテーマにとりあげました。その中で、応神天皇が海人族の血を引くことを暗示する尻尾の伝説に触れました。
京都東山にあった観勝寺の僧だった行誉が 文安三年(1446年)に著した『あい嚢鈔(あいのうしょう)』という事典があります。これは故事の起源や語源・語義を整理したものです。その中に「尾籠事」という記事があります。
「或る説に応神天皇、海神の御末なる故に、龍尾御座して、是れを隠さん為に装束に裾と云ふものを作り始めて、是れを引き彼の尾を隠さしめ給ひける也。然るを出御の時、内侍未だ裾の内に有るを知らず、障子に立て籠め奉りにけり。其の時、尾籠也と仰せけるより始まれる詞也となん」
「応神天皇は海神の末裔であったので、龍の尾があった。これを隠すため、装束に裾というものを作り、この中に尾を収め隠した。ある日、天皇がお出でかけになるときに、裾がまだ部屋の中にあることに気づかないまま、女官が障子を閉めてしまった。天皇は女官に向かって、尾が籠っていると叱った。これが尾籠の語源である」。
『あい嚢鈔』には、さらに、皇祖神のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)は海神の子だから、代々竜尾があったとも記されています。
天孫降臨で地上に降り立ったニニギの子がヒコホホデミ(彦火火出見・山幸彦)で、ヒコホホデミは、海神であるトヨタマヒコ(豊玉彦)の娘であるトヨタマビメ(豊玉姫)と結ばれます。この二人の間にできた子がウガヤフキアエズです。
ウガヤフキアエズは、自分の母であるトヨタマビメの妹、つまり叔母にあたるタマヨリビメ(玉依姫)と結ばれて、二人の間にできた子が神武になるわけです。ということは神武も海神の血を引いているので、尻尾があったということになります。
そもそも記紀神話では、イザナギが海水でミソギをしたとき綿津見神と底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)とアマテラス、ツキヨミ、スサノヲが生まれたとされていますから、神話の発端から日本の主要な神々が海と関係が深いことが示されているわけです。
アマテラス、ツキヨミ、スサノヲの三神は架空なのはあたりまえとして、神武とそれに続く第二代の綏靖から第九代開化までの天皇も、いわゆる『欠史八代』の架空の存在で、第十代の崇神からが実在の天皇とみられていますから、実質的な初代天皇の崇神から第十五代の応神までの間は「尻尾がある」、つまり海人族の血を引くもしくは海人族とのつながりが深い天皇であることを示しているといえます。
『日本書紀』の応神天皇の項には阿曇(安曇)氏が「海人の宗に任じられた」とあります。これは、阿曇連の祖とされる阿曇大浜が、応神天皇によって、天皇の命に従わない各地の海人(海部)族を平定し、その管掌者になることを命じられたことを記したものです。このことから、海人族の中でも天皇家と阿曇氏が近い関係にあったことがうかがえます。
阿曇氏は、後の律令制の時代にも、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官を務めています。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)は海産物が主で、海人系氏族の役割とされたことに由来しているとされます。
7世紀の持統の時代に伊勢神宮が整備されると、内宮に祀られるアマテラスの食事を賄う御食津神(みけつかみ)として、丹後の国から豊受大御神(とようけのおおみかみ)を勧請して外宮が設けられました。この丹後の国も海人族の拠点の一つで、丹後一宮の籠神社の宮司は代々海部氏が務めてきました。また尾張の熱田神宮、大阪の住吉大社の宮司家も海部氏と連なる海人族の系譜です。
熱田神宮といえば、前回のテーマで掘り下げたように、スサノオの神剣である草薙剣をここに奉斎する尾張氏が天皇家と非常に近い関係にあります。住吉大社に関しては後に詳しく触れますが、この神社は応神と非常に深い関係があります。こうしたことからも、天皇家を中心とした海人族の緊密なネットワークがあったことがわかります。
記紀神話のエピソードには、不可解なものが色々ありますが、天皇家と海人族のつながりという視点に立つと、明白になってくることがいくつもあります。前回は天叢雲剣(草薙剣)がなぜ熱田神宮に祀られているのかを、これを奉斎する尾張氏が天皇家と関わりの深い海人族であるという点から解明したわけですが、同様に「元伊勢」の謎も、この視点から解くことができます。
崇神の時代に疫病や飢饉、騒乱などの禍事が続き、人口の半ばが失われてしまいました。そこで、託宣を得ると、アマテラスとオオモノヌシを宮廷の内に祀っていることが、祟りの元となっていると出ました。そこで、この二神を宮廷外に放逐することになるわけですが、オオモノヌシは三輪山に落ち着いたのに対して、アマテラスは落ち着き場所が決まらず、各地を放浪することになります。
はじめは崇神の皇女であるトヨスキイリヒメ、さらに次の天皇垂仁の皇女であるヤマトヒメに受け継がれます。ヤマトヒメが御杖代となって、奉斎場所を探し、ポイントを転々としてゆきます。そのポイントが、いわゆる「元伊勢」です。元伊勢と伝えられる場所は二十数カ所にもおよびますが、その中には、先にあげた籠神社や熱田神宮、住吉大社も含まれています。
元伊勢が分布する地域は、摂津、丹後、丹波、尾張、美濃、伊勢と非常に広範で、なんの脈絡もなく見えます、それは、ヤマトヒメがアマテラスを祀るにふさわしい場所をなかなか見つけられず、場当たり的に迷走していたかのようです。アマテラスを祀る上で、何か特別な自然環境や土地にまつわる歴史的な背景が揃う必要があって、そのすべてが揃う場所がなかなか見つからなかったのだろうかと思っていました。トヨスキイリヒメの代から数えるとじつに50年あまりにも渡って放浪しているのですから、よほど奉斎場所の条件が厳しかったのだろうと。
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