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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.268
2023年8月17日号
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◆今回の内容
○なぜ三種の神器の一つ天叢雲剣は熱田神宮に祀られているのか
・尾張氏とは
・本当の出雲国造と熊野
・スサノオの本質
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なぜ三種の神器の一つ天叢雲剣は熱田神宮に祀られているのか
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天皇のレガリアである三種の神器は、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラスがニニギに授けた三種類の宝物とされ、八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉の三つを指します。本来は三つとも宮中にあったものですが、今では、それぞれが別の場所にあります。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、それぞれの形代が作られたとされます。この記載から、別々の場所に移されたのは、三種の神器が定められてからほどなくしてであったことがわかります。
崇神が疫病や飢饉が蔓延する中で、それがアマテラスとオオモノヌシを宮中に祀っていることが原因であるという神託を得て、この二柱の神を宮中から放逐します。それが、オオモノヌシが三輪山に祀られ、アマテラスがトヨスキイリヒメとヤマトヒメを御杖代として放浪し、ようやく伊勢に落ち着くことになった原因ですが、その際に、ただ目には見えない神だけでなく、アマテラスの象徴である神鏡とオオモノヌシ=スサノオの象徴である神剣も、実際に宮中から運び出されて、外に祀られることになったのです。
八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に安置されています。オリジナルのほうは八咫鏡は伊勢の神宮内宮に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎されています。これらのレガリアが宮中や天皇家と直接の関係がある伊勢神宮に安置されているのは当然として、なぜ天叢雲剣が天皇家と直接関係のない熱田神宮に祀られているのでしょうか。
天叢雲剣は日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチを退治した時に、大蛇の尾の中から見つかった神剣であるとされます。ヤマタノオロチ退治に至る経緯と、神剣の名称については『古事記』『日本書紀』で異伝があのますが、 スサノオがこの神剣を高天原のアマテラスに献上したことは共通しています。そして、天孫降臨に際し他の神器とともにニニギノミコトに託されたとされるのも記紀で共通しています。
天叢雲剣は、 崇神天皇の時代に形代が造られ宮中に安置されたのは前記のとおりですが、オリジナルは笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたと伝えられます。さらに景行天皇の時代、伊勢神宮の斎宮であったヤマトヒメが、東征に向かうヤマトタケルにこの剣を託しました。
ヤマトタケルは伊吹山でイノシシの姿をした山の神の毒気にあてられ亡くなりますが、その後、神剣は伊勢神宮には戻されず、ヤマトタケルの妻であり尾張氏の一族であったミヤズヒメが尾張国に持ち込み、ここで社を建てて、その神体として、代々尾張氏が祀り続けてきたとされます。この社が熱田神宮です。
なぜ神剣は伊勢神宮に戻されず、あらたに設けられた尾張国の社に祀られたのでしょうか。その謎を解く鍵は、古代豪族の尾張氏とスサノオとの隠された深い関係にあります。この講座の266回と267回では、牛頭天王とスサノオとの関係に焦点を当てましたが、今回は、さらにその続きともいえるスサノオにまつわる謎を掘り下げてみたいと思います。
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